しばらくは心地よい風に酔いしれていたが、ナンナは口籠りながら話しかけた。ナンナの声が聞き取りにくかったので、フィンは馬のスピードを落とした。
「何だ?」
「…お母様、お兄様には会えたのでしょうか?」
「!」
そう言ったきり俯くナンナ。フィンは近頃ナンナがふさぎがちだった原因がわかった。
 エーヴェルは母親代わりとしては完璧だった。常に子供達には厳しさと優しさをもって接していた。子供達も心から彼女を慕っていた。しかし、いや、だからこそナンナは実の母親ラケシスのことを思い出さずにはいられないのだ。リーフやマリータには母の記憶はほとんどない。心の底から甘えられる。だがナンナにはわずかながら残っている。おのずと一歩引いてしまう。それが歯がゆくて…寂しかったのだ。
 ナンナの気持ちに気づいたフィンだが、何と言ってやればいいのかわからなかった。気休めを言ってもナンナは喜ばないだろうと思ったからだ。自分は父親らしいことを何もしていないのを改めて思い知らされた。そしてそれにショックを受ける自分に腹が立った。
(覚悟していたはずではないか)
 無言の父が怒ってるのではないかと恐る恐る振り返ったナンナは自分の発言をひどく後悔した。父はさして表情を変えていなかった。しかしその瞳に悲しみの色があったのをナンナは見逃さなかった。ナンナと目が合ったフィンはそっと微笑み、口を開きかけた。
「ごめんなさい、お父様」
「お前が謝ることではない。…今は信じることしかできないのだ」
 村に帰るまで二人はずっと無言だった。ナンナは、父の気持ちが理解できなかった。
(こんなに悲しんでいらっしゃるのに、どうしてお母様を止めてくれなかったの?)
そしてナンナの脳裏にターラで聞いた噂がこだまする。あの時は言葉の意味はわからなかった。でも今はわかる…。いや、何となくはわかっていた。だからこそナンナはその時からリーフに対する態度を変えた。父は複雑な表情をしていたが。
 
 フィンが加わったことで、フィアナ義勇軍の勇名は高まり、周辺の村々を襲う賊はめっきり減っていた。最後まで手を出してきた山賊団も首領を倒したことで崩壊した。気掛かりなのはイス沖の海賊島に巣食う海賊であったが、最近は鳴りをひそめていた。他所を襲っているのは容易に想像できたが、こちらから攻撃できる状況ではなかった。
(とにかくこれでしばらくは安心できるだろう)
あまり目立たぬように戦っていてもフィンの強さはエーヴェルとともに強烈な印象を与えていた。それが帝国の耳に届かぬことだけをフィンは願っていた。
「おい、あんたこれからどうするつもりだ?」
ダグダはフィンに声をかけてきた。元は紫竜山の山賊のボスだったが、エーヴェルの影響を受けて足を洗い、部下を率いて紫竜山のふもとで開拓を進めている。フィアナ義勇軍の一員として戦いに加わることもあったが、もっぱら足を洗った山賊を自分の元に引き取り、更正の手助けをしていた。フィンは彼の人柄に好感を覚えていた。
「…フィアナ村を出ていけということか?」
確かに村にいる理由は無くなったといってよかった。しかし、ダグダは首を振る。
「そんなこと言ってるんじゃない。もう誰もあんた達を他所者だと思ってるやつはいないさ。そもそもわしはそれ以下だ。…そろそろいいんじゃないかって言ってるんだ」
「何が?」
「エーヴェルのことだ」
「エーヴェル?」
焦れったいと言う表情をしながらもダグダは次の言葉を口にするのを躊躇っていた。
「…エーヴェルのことどう思ってるんだ?」
「恩人だ。感謝してもし足りないほどだ」
「そうじゃなくてだな…女としてどうなんだって聞いている」
「?」
とうとうダグダは我慢しきれなくなった。
「エーヴェルを幸せにしてやってくれ!」
叫んでしまい、慌てて周囲を見回す。話していて仲間からは遅れていたため、他には聞かれずにすんだ。
「ダグダ、何を言ってるんだ?」
「村の連中はあんた達はもう夫婦同然だって言ってる。あんたの事情はよく知らんが、けじめはつけるべきだと思う」
 フィンは呆然として空を仰いだ。最近の村人の態度に思い当たるものがあった。エーヴェルといつもひとくくりにされているような気はしていた。家を借りた時はリーフとナンナの三人で食事をしていたが、いつの間にかエーヴェルの家で食べるようになった。子供達も寝る時以外はエーヴェルの家で過ごすことがほとんどだった。リーフとナンナにとってすでにエーヴェルとマリータは家族同然だった。フィンは極力自分の家にいるようにしていたが、それでも周囲の目にはそうは映っていなかったのだ。
(迂闊だった…。エーヴェル様に甘え過ぎていた)
そして何よりエーヴェルに好意を抱いている(とフィンは思っている)ダグダから指摘されたことが申し訳なく思った。

 フィアナ村に戻ったフィンはエーヴェルを探した。エーヴェルは皆をねぎらった後、家に入ろうとしていた。もう明け方近い。小声でエーヴェルを呼び止めた。
「どうしたの?フィン」
「…話があるんだが…」
「じゃあ、入ってお茶でもどう?」
流石にそれは躊躇われた。あんな話を聞いてこんな時間に平気で彼女の家に上がれるほどフィンも鈍くはない。
「マリータは今夜はそちらで泊まってるはずよ。子供達を起こしたくはないでしょ?」
外で話すにしてもまだ義勇軍の仲間がうろついている。
(仕方ないか…)
 エーヴェルの家でお茶をすすりながら、フィンはどう切り出したらよいのか悩んでいた。考えてから来ればよかったとも思うのだが、きっと思いつかなかっただろう。
「用って何かしら?」
「…あ、あの…村の噂で…」
「ああ、貴方と私ができてるって噂のこと?」
「で、できてる!?」
「あんまりいい言い方じゃないわね。とりあえずそう思ってる人は多いみたい」
「申し訳ない!貴女の好意につい甘え過ぎてしまって…」
「気になさらないで。といっても貴方には一大事のようね」
「当たり前です」
「そんなに奥様のこと大事?」
「…」
フィンの表情が一瞬曇り、それを見ていたエーヴェルの瞳が翳る。
「聞いた私がバカだったわ。忘れてちょうだい。…どちらにしてもこの噂、私には助かるのよ。だから貴方の都合を無視して放っておいたの。ごめんなさいね」
「どういうことだ?」
「こんな年でいつまでも一人でいるといろいろ言われるのよ。マリータのためにも早く結婚しろとかね。でも何故か私にはそんな気が起きないの。だから今の状態はありがたいというわけ。それに心置きなくリーフ様やナンナ様に母親面できるしね。貴方にもデメリットはないと思うんだけど…ああ、奥様に誤解されると問題ね」
「あの方は誤解などなさいません」
「………。それなら構わないでしょう。突然他人行儀になってもリーフ様達に説明できないでしょう?あ、相手が私では不満かしら?」
「そういう訳では…」
「ある意味私達は共犯なんだから仕方ないでしょう?」
「…」
完全に納得した訳ではなかった。でも他に妙案があるはずもなく、受け入れるしかなかった。確かに村に来た頃いろいろ世話を焼いてくれた女性達はいつしか来なくなっていた。ナンナが体よく追い返したこともあるが、やはりエーヴェルのおかげ(?)なのだろう。
 肩を落として家に帰る途中で義勇軍のメンバーと鉢合わせしてしまった。彼はフィンが来た方角を見てにやっとし、何も言わずに去った。フィンは自分で火に油を注いだことを自覚した。

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