1998年7月下旬


<7月21日・火>
◇ 「アンドロメディア」(渡辺浩弐、幻冬舎 600円)を読む。会社の往復で読了。章ごとに話者を変えていく語り口が面白く、それがリーダビリティを支えているのだろう。でも、個人的にラストは不満である。あれはショートショートならありだと思うのだが、長編の結末があれでは、登場人物が浮かばれまい。作者の立場上「AI」というヴァーチャルアイドルの存在を否定もできないし、かといってそれを肯定してしまうと、ドラマが機能しなくなるという、二律背反がそのまま出てしまった結果なのだ。道具立てが時代の変化の最先端のものだったけれど、それに見合う文明観、哲学の不在が、道具立てを道具立てのまま終わらせてしまった、といったら少々厳しすぎるかな。ただ、作者はおそらくああいう小説を書きたかったのだから、そういう意味ではそれなりの完成作なのかもしれない。

○ 時としてB級映画が、視点を変えるととてつもない傑作に見えてしまうことがある。これの何割かは、世界観のほころび、登場人物の描写不足が、そのまま逆転して「不条理な物語」へと転換してしまうからだろう。それにならっていうと、「アンドロメディア」は不条理に転換しない程度に、ちゃんと書かれていたために、なんだか消化不良な感じになってしまった、という感じ。あとは筆者に筆力がなく、キャメラがどうしても登場人物に寄る傾向にあるため、読者を感情移入の方向に誘導してしまうのも一因だろう。もっと突き放した書き方がしてあれば、あのラストも成立し得たんではないかと、同時に夢想もするのであった。

△ お仕事お仕事モードで「ロンサム」な気分。


<7月22日・水>
◇ 仕事をしていたような感じ。明け方帰宅して、つい「「もののけ姫」はこうして生まれた。」の3巻を見始め、最後まで見てしまう。

○ 鈴木プロデューサーが語るところによると「宅急便以降、ヒットさせるということに意欲的になった」そうだ。とすると、はじめてヒットした映画である「宅急便」(21億円)が、結局、100億への第一歩であったともいえるだろう。先日も日記に書いたのだが、「それが作品のためになるのか」という首尾一貫した姿勢で(そうではない宣伝が数多くあるのは周知の通り)宣伝をやりとげたということは敬服に値する。

△ 全く素人のボクが、想像するに100億円の内訳は以下のような感じだったのではないか。40〜50億(宣伝、パブリシティ、劇常数の確保などによる効果)、30〜40億(ヒットによるブーム化と相乗効果)、残りの30〜40億がリピーター、口コミなど作品自体の影響力。 
 口コミがどの程度機能するかは、何のデータも見たことがないのでわからないのだが、客足の落ちなさ(作品のクオリティ、間口の広さは動員数の推移に如実に反映する)からみるとけっこうあったと思う。このあたりは想像なのだけれど。


<7月23日・木>
◇ 「子どもの替え歌傑作集」(鳥越信、平凡社 1900円)を夕食中に読了。塵芥と消えていく、替え歌を唱歌、童謡、歌謡曲などのジャンル別に採集、解説をつけたもの。ええと、こういう「芸術」が限界芸術でよかったんだっけ? ともかく、自分が子ども頃に歌った歌が載っていて、それが無限に繰り返し歌われてきたもう一つの伝承であったことに気づかされる。

○ 正にシンクロニシティなのだが、先日知人と「レインボーマン」の主題歌の替え歌について話したばかりだったので、興味深かったのも事実。
 ボクが小学生の頃歌っていたヴァージョンは
「インドの山奥/デンデンムシカタツム/リカチャンプレゼン/トンボの眼鏡は水色めが/ねーちゃんのパンツは花柄パン/ツーと言えばカレー」
同書に掲載されたヴァージョンは
「インドの山奥/デンデン かたつむ/リンゴはまっかっ/かーちゃんおこりん/ぼーくは泣いちゃっ/たぬきのきんたまぶらぶ/らんぷはまっかっか……」
というものである。
さらに、私の知人が知ってるヴァージョンを書くと
「インドの山奥/デンデンムシ捕まえ/たんぼのドまんな/カエルが跳びこん/でっ歯の禿アタ/マンジュウの食い残/しっこシッコノみずたま/リンゴが浮いていた」
である。
おそらく全国に無数のヴァージョンがあると思われるので、自分が知っているものと違う、という人がいたらメールをもらえるとうれしいです。もしかすると、地域で伝播していく過程が歌詞の変化になっているのかもしれない。現代の「蝸牛考」になるかもよ。

△ なお同書の「あとがき」では、歌詞を自由に引用して研究できないことについての問題提起もなされている。それによると替え歌になれば、人格権の問題にもなるという。(そういえば、カラスの勝手でしょー、が遺族から問題にされてたなあ)。著作権・人格権については当然尊重されなければならないが、個人的には報道、研究(含む評論)についてはかなり自由に引用ができたほうがいいと思っている。

◇ まあ、それ以上にボクはマンガの画像の引用、本の表紙の引用を自由にできるように、関係業界の慣習や法律が整備されることも望むのであるが。マンガの絵の引用にあれだけうるさいらしいのは無意味ではないかと思っている。おそらく悪用した場合は、文章の引用と同じルールで取り締まったりすることができるんではないだろうか? そういう意味では過剰防衛の感じがするのだ。


<7月24日・金>
◇ 仕事なのだが、会社の往復で「新興宗教オモイデ教」(大槻ケンジ、)を読了。結構、小説が上手で見直した。まあ、そのよさとは何割かは無自覚で書いているよさ、なのだけれどね。そういう意味では、ブンガクにおいて何が新しいかを知らなくても、そういう世界に影響を与えるマンガ家なんかとポジションは似ているかもしれない。本人が今後、勘違いをして「小説家」にならないことを祈りつつ、ここではいちおうほめておこうか。いや、結構、あの切実な感じはこの世に生きにくさを感じているヲタクとかヤオイの人などにはは受け入れられるんだろうなあ。この生きにくさを、この小説では「ロックンロール」と呼んでいるわけだが。

△ とりあえず仕事で、まあ順調といってもいいか? 


<7月25日・土>
◇ というわけで、世間の塵芥を流すために都内某所にてリゾートモード発動。午後4時からプールで泳ちょっとぎ、プールサイドで沢木耕太郎「人の砂漠」を読む。うーん、ちょっと重い本を選びすぎたかも。あまりの重さについついまどろんでしまうほどだ。そして、起きてからおもむろに80メートルほどノンストップで泳ぐ。20メートル×12メートル程度のプールだけれど、人も少なくなかなか居心地がよい。中学校時代は水泳部だったので、昔取った杵柄というやつですな。それにしても久しぶりに泳ぐと、耳に水が入りやすいなあ。
 ともかく、おもわず会員になってしまおうかと思うぐらい、快適でありました。会費が高いから無理なんだけれどね。

△ それから、近所の居酒屋。いやあけっこう美味かったです。白ワインを飲んだりして、飛び込みで入ったわりには大成功。酔っぱらってさっさと寝る。ネットに接続しようとするも失敗。PG。

◇ さらなる某所で有線のアニメチャンネルを聞く。いやあ午前3時過ぎからののアニメ・特撮の、石森、手塚、藤子メドレーはなかなか強烈。「ドン・ドラキュラ」のOPとか久しぶりに聞きました。それから、おなじみ「羊チャンネル」(羊が一匹……、というやつ)や「読み上げ算チャンネル」なども堪能する。読み上げ算チャンネルはすごく現代美術的な存在だと思うが、いかがなものか。 


<7月26日・日>
○ 青山のスパイラルで、村上隆「マイ・ロンサム・カーボウイ」を見る。少年のザーメンをみながら、カフェでコーヒーにミルクを入れているという光景はなかなか、笑えるモノではある。完成した「マイ・ロンサム・カウボーイ」は個人的にはKokoちゃんよりも物語性が強いように感じたが、まあこれは直感でもあるので正式な自分の考えはしばらくは保留かな。 だれか本職?にショタとの連関で語ってもらいたい気持ちはあるのだが、自分には知識がないので、触れずに置く。
 会場には、くヤベノケンジさんのアトムスーツとかすげい前から気になっていたアイテムを直に見ることが出来てうれしかったのも事実。「エロポップトーキョー」のビデオと、例の限定の時計をゲット。金がなくなるー。

◇ 炎天下を渋谷まで歩いてJR。恵比寿の東京写真美術館の「電子時代の新たなる肖像展」を見る。面白かった! 一番インパクトがあったのは、さまざまな大きさの「照る照る坊主」風の人形にプロジェクターで人間の顔を投影した作品。彼らは英語でうめいたり、抽象的な言葉にさまざまな感情を込めてしゃべっていたりする。認知科学的に「なにが人間に見えるか」という条件を非常にうまくクリアしており、個人の肉体に寄らずに、人間を感じさせることに成功している。モーフィングするキリスト像もGOODであった。知人がすごく強烈に薦める理由がよくわかった。

△ これは受け売りなのだが、なんでも人間は、顔のパーツの配置によって「顔」を認識しているそうだ。○や△を一定の場所に並べたものを見せると、幼い子どもでもそれが「顔」だと認識するという。逆に、記号化された「目」や「鼻」がない絵をみせると、怖がったりするそうだ。この本能?は同時に、パーツのゆがみ、変形を表情として判断するという回路とつながるのではないだろうか。

 キリストのさまざまな顔をモーフィングでつないでいく作品を見ながらそんなことを考えていた。本来なら絵と絵をつなげるための変形にすぎない歪んだ絵が、しかし、キリストに表情を与えているように見えるのである。正しい絵と絵の間から、ありえない表情を持ったキリストが立ち現れるというのは、なかなかに刺激的であった。
 
○ 池袋の無印良品でCDケースを買って、「ゴミと暮らす」生活を改めようとする。帰宅して大掃除を断行。なんとか人の暮らす環境らしくなる。夜中になぜか「銀河英雄伝説 わが征くは星の大海」を見てしまう。酔っぱらって墜落睡眠。PG。


<7月27日・月>
◇ 少し前に、「日記猿人」で職業の貴賤云々といったテーマが話題になっていた。個人的には、某サラ金の広告に009が使われているのが、ものすごくイヤなのだが、その理由がうまく説明できない。これは、ボクの中にも貴賤という発想が無意識のうちにあるからかもしれない。ただ、例えばサラ金に勤めるオネーチャンとでも話があえば、付き合ったりなんだりするのには全く抵抗はないのだけれどね。おにーちゃんと友達になるのでもいいけどわかりやすい例えとしてのおねーちゃん、ね。

○ さて、貴賤というのとは別に、あるいは微妙にリンクしていると思うのだが、 職業に要求されているモラルの量、あるいは種類というのにはかなりの差があって、それが職業に対するイメージの差を生んでいるのではないか、というのが今回私のいいたいことなのである。

 例えばセンセイと呼ばれる類の職業に、かなりのモラルが要求されていることについてはあまり異論はないであろうか(ああ作家は別かな)。この種の職業が、不祥事を起こすと叩かれるのはもともと高いモラルを要求されているという背景があるわけだ。(そして裏切られ続けると、その評価はネガティヴに逆転する。例えば、物語で政治家が安易に悪役に描かれうるのは、高モラルであるが故にそのモラルに応えている人が少ないという社会的な認識の反映だろう)。要求されるその理由は、その仕事の公共性が高いからではないだろうか。
 その考えを敷衍すると、その人が少々モラルを違反しても不利益になること・人が少ない仕事というのが高モラル職業とは逆の職業ということになるだろうか。高モラル職業は影響力が大きく、なるのが難しいものが多いわけだから、それに憧れる人は結果として増えるのかもしれない。それが、高モラル職業への「尊敬の念」が形成されるプロセスであろう。ここまでくると貴賤まではあと一歩なのだが、貴賤そのものには、モラル云々だけでなく古風なケガレの発想が交じっているはずなので、ここではあえて貴賤とつなげて論じない。世間的に貴であるという職業を、そうではないと否定するときに、ケガレのロジックをもってくる例が多いのはもっと誰かが指摘してもいいかも。

◇ そういえば、「ディープインパクト」の感想についてメールが届いた。その方の意見としては、ボクとやや異なるようであるのだが、こういうリアクションがいただけるのはとても刺激的である。

△ 一難去ってまた一難というお仕事状況であります。     


<7月28日・火>
◇ 学生時代の後輩より「なんでも本当に、劇場版公開記念の「ユリカ」が発売になるらしいです」というチクリ?メール。ううん、これが本当なら侮りがたし名古屋市交通局。なお、先日も書いたがユリカとは名古屋市の地下鉄で利用されている、JR東日本でいうところの「イオカード」である。

○ 父親と妹からそれぞれメール。といっての、例のサイトにアクセスして見る絵はがきタイプのヤツである。父が「たまには返事を書いてもよいのではないですか」とやんわりと脅迫してくる。ふふ、日記を持っているとこういう、さらしものにする、という報復も可能なのだよ>父

△ 打ち合わせをつつ、今後の人生などを思い描いて、現実逃避したりする。   


<7月29日・水>
◇ 今日はめずらしくすごくスムーズに仕事が進行する。ラッキーっていうかんじかな。

○ 駄洒落について。私はダジャレが好きである。日記ではあまり書かないが、日中にフトアタマの中にうかぶダジャレを口に出さなければ気が済まないほうである。さすがに仕事中にはやらないが、こういうダジャレの絨毯爆撃を浴びせかけている知人も少なくない。もちろん座右の銘は「地口はギャグの基本なのに!」(クルクルくりん、とりみき)である。

 ダジャレの基本は、「駄」であるところに尽きる。洒落ていてはだめなのだ。この駄はつまり、本来の正統性(例えば和歌の掛詞とか)からはずれた読み人知らずのフレーズであることの証なのである。だから、外タレにいわせる怪しげなフレーズ「インテグラ、のってぐら」とか「刑事(デカ)プリオ」などは、そのフレーズがいくら地口の駄作であっても、外タレの個性の上にのっかって流通してしまった時点で、ダジャレではないのである。あれはダジャレの外道である。
 私がダジャレの基本だと思っているのは唐沢なをきのいくつかの作品である。例をあげる。@チベットの子どもが帰宅して「おかあさん だらいらま」A作者本人がアイデアを考えながら「加勢大周が円盤で攻めてきて「加勢人襲来」」。どちらも4コマの作品なのでこうやって引用するのもなんなのだが、じつはこれだけではダジャレとしては完成しきっていないのである。
 @の場合は母親の「そのダジャレひとつでことたれりとする気かっ おそろしいこだよ」Aでは作者自身のセリフが「「加勢人襲来」というネタはどうでしょう!!」と続き、それに無言な編集の姿がある。これはいってしまうと、ダジャレが駄であることを確認する自意識の存在なのである。一般的にはツッコミともいうが。これが欠けた時には、ダジャレは駄の部分がけつらくした、ただのしょーもないシャレとして流通してしまうのである。
 私はアエラの中吊りのフレーズをけっこう好んで見ているのだが、やはりあれが世間的に評判が悪いのは、これはしょーもないことです、という自意識の部分が欠けているからだと思うのだ。もちろん、ここで必要なのは、あれで1冊のムックを作ってしまうような自意識とは全く違う自意識であることは間違いないのだが。
 ただ、一つ付け加えておくと、活字メディアでのダジャレはなかなか難しいということはいえるだろう。小説で登場人物がダジャレをいうシーンが成功している例を寡聞にしてわたしは知らない。それは、マンガには世界を支えるコマ(自意識)があることと大きく関係しているように思う。
 
 というわけで、このページでわたしがダジャレを書き込むことはなかなかないであろう、というのが結論。  


<7月30日・木>
◇ 魔が差すとはこのことでしょうか、つい買ってしました「ふざけるな専業主婦」(石原里沙、ぶんか社 1000円)。いやー、元気があってよろしい。ただ、反論を封じるためのエクスキューズが多いので、あとわずかのところで新手のトンデモ本になりそこねている、そこだけが悔やまれる1冊です。どうせ専業主婦を嫌いだと言うだけの本なんだから、専業主婦陰謀論みたいにドカーンと風呂敷をひろげてくれたらサイコーだったのに。(このわかりにくい文章をちゃんと読解してくれる人がいることを期待して)。

○ ちなみに、主婦の労働についてちょっと気になったので調べてみたら、平凡社大百科事典の「家事」の項目に以下のように記述してありました。一部分を引用。

〈家業〉は変容し,家庭内の私的な消費生活を受け持つ固有の〈家事〉と,外で社会的生産労働に携わりその対価として貨幣を稼ぐ〈職業〉とに分離した。その結果,第2期主婦論論争(1960年《朝日ジャーナル》誌上の磯野富士子論文をきっかけに再開された主婦論論争)のテーマである,家事労働の無償性という問題構図が生まれたのである。たしかに,家事労働は,いわゆる交換価値を生まない。同じように掃除をしても,職業としてそれを行う家政婦の行為は有償であるが,家庭の主婦の行為は無償である。しかし有償労働と無償労働という対比のしかた自体が,いわば近代商品社会の歴史的産物である。したがって〈公的な職業労働は尊く,私的な家事労働は卑しい〉とする発想も,その裏返しの〈賃労働は疎外されているが,純粋に家族に尽くす家事労働は疎外されない〉とする発想も,実は同一の歴史的枠組みに根ざすものであり,そのような認識枠組み自体が乗り越えられなければならないのである。
(中略)
ひとつには社会的人間関係の文脈で,もうひとつには家事労働の本来の人間形成力の文脈で,全体性を失っている。I. イリイチは,現代の家事労働を,無償労働であるとともにそれをいくら遂行しても決して人間の真の自立に至らない労働になっていると指摘し,〈シャドーワーク〉と呼んでいる。このような家事および家事労働の今日的あり方自体の中に含まれている問題構図は,現代社会の構造に深く根ざしているだけに,解決は容易ではない。 それに加えて,家事の担い手が性別役割分業によってもっぱら女性のみに固定され,女性の社会的活動への参加を制約するとともに,男性を生活上の無能力者へと仕立てあげてきたという問題状況を見逃すことができない。男女が対等な関係に立ち,ともに助け合う自立的な生活者たろうとする立場から,男性の家事参加を主張する議論も近年盛んになってきている。家事の歴史的性格と担い手の変革という二つの視角から考えていくことが必要であろう。
>(執筆は船橋恵子)

△ 長々と引用したのですが、前段からは「家事」というのは男女問わずに一人一人の身の回りにあるものだ、という結論が導きだせるでしょう。また、後段は、以前日記でも書いた、各人の所属するゲマインシャフトとゲゼルシャフトの違いが、自己実現の実感の差を生んでいるということとほぼ同義だと思います。同項目の別のところにも書いてあるとおり、専業主婦というのは高度経済成長の中で生まれた、ある意味特殊な形態であり、企業も含め日本の社会がそれに依存しすぎてきたということが指摘出来る。更に言えば、これからしばらくの間は、高度成長のパラダイム(これも41年体制といってもいいかもしれないが。なにしろ企業戦士と銃後の守りなわけだから)が崩壊していく時期なので、専業主婦にとって受難の時代といえるのは間違いないだろう。
 すくなくとも、自己実現、自己承認を幸せの一つの条件としてしまった、今の30代以下の人にとっては、かつての専業主婦像を行っていくのは難しいことになるだろう。

○ ただ、そうした世の中の流れと、個人の選択はまったく別である。本人がそれで充足していたら基本的にどんな選択もオッケーであると思う。ただ、ほかの人から見たらその選択がどのように見えるか、自分が社会のなかでどんな流れにのってしまっているのかを考えるのは損にはならないと思う。そして、同時に自分にとっていらいらする他人を見たら「おろかでいるのも一つの権利」だと考えるのが一番ベストでしょう。自分も含め人はそんなに賢くなれないものです。まあ、愚かなヤツを罵倒する芸風で商売するのも一興ですが。


<7月31日・金>
◇ 「国際オタク大学」(岡田斗司夫編、光文社 1600円)を読む。そこで、以前から気になっていたショタの語源について、言及があった。

○ 俺的に整理すると、壱行知識家・唐沢俊一氏が自著の中で「ショタコンの語源となった正太郎は、カラー版の鉄人である」と語ったことが非常にインパクトがあったと思う。個人的には、この説がなかなか腑に落ちなかった。もちろんそのぶん唐沢説は、コペルニクス的展開なわけだが、当時、カラー版の鉄人がそれだけファンの間に、正太郎といえばカラー版と思わせるほど根強い存在だったとは思えなかったのもまた事実である。いちおうニフティで唐沢氏ご本人も自著が出たあとに、自説と違うショタ語源が雑誌などに掲載されると「これは自著を読んでいないにちがいない」と発言されていたようなので、けっこう自信があったのではないだろうか。

△ ところが、国際おたく大学の「おたくのセクシャリティ1」(筆者は渡辺由美子氏)の注では、むしろそれを否定する内容であった。命名者はファンロードの編集長K氏。で、ヒントを与えたのはアニメックの小牧編集長。2人が想定していたのは、実写版やマンガ版であったという。もっとも、こうしてつくられたショタコンという言葉を当時のファンがどのように受け取ったか、というところで解釈の余地はあるのだが、こういう流れであったとするなら、ショタコンの語源となった正太郎は実写版もしくはマンガ版というのがオーソドックスな解釈であろう。

□ 「前略 押井守様」のデータ原口氏の本人インタビューは、資料性のみにポイントをおいた内容で、その執念に圧倒される。 


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