ディープインパクト


 迷走している。それは、映画の内容が、ということではない。この映画のドラマを突き動かすべきエネルギーについて語り手が迷っているのである。

 原因の一つは”敵”の不在ではないか。巨大隕石の落下は戦争ではなく自然災害である。映画のクライマックスである地表を覆い尽くす大津波と倒壊するビル、彗星上での命がけの船外活動、そして観客の涙を絞りとる家族のドラマ。それらがすべて映画を盛り上げるためのスペクタクルでしかない。 もちろん、その限りにおいては非常によく出来ていることに間違いはないのだが、映画の語り口はそれを、宇宙人と殴り合うようなインデペンデンスデイ的高揚感で描くことに躊躇しているようにも見える。 

 これは、敵が何者かでなければ、アメリカのアイデンテティは保てない、ということの証明とはいえないだろうか。敵が悪ければ悪いほど、自らは正当に見え、戦う過程で国家的な連帯感も生まれてくる。だが、自然災害が相手の場合、生き残った今は幸せとしても、これからも災害以前と同じ社会が待っているとするなら、その結末をあなたはハッピーエンドと呼べるか? 
 
 つまり、この語り口の迷いの中心にあるのは、今のアメリカ社会をどこまで自らの力で肯定すればいいかという迷いなのである。そういう意味では、この映画はアメリカの最終的な勝利を描こうとする過程で、アメリカの苦悩をダイレクトに表現してしまった映画といえるだろう。(98/7/4) 


映画印象派 RN/HP