1998年5月中旬


<5月11日・月>
◇ なんだかんだと忙しかったような。


<5月12日・火>
◇ WOWOWで『若草物語』少し見る。すごい、物語がではない。演出の一つのお手本のような作品だと思う。、なにも特別なことをしていないけれど、これぐらい人間関係をシンプルに描けたらいいだろう。これにくらべたら多くのアニメの演出は、予算の都合があるにしても、カスばかりだ。これぐらいオーソドックスな演出が何故ないのだだろう。

○ 学生時代の先輩から「更新もろくにしていないのに、カラメールボタンをつけるな」と、突っ込みのメール。いやごもっとも。


<5月13日・水>
◇ 忙しさの一つの頂点を迎える。結局、14日午前10時半までぶっつずけで仕事をする。でも、とりあえず無事終了して一安心。

○ といっても昼間には時間の余裕があるので、サンシャインシティで観劇など。知人からもらった「アマデウス」のただチケットがあったのだ。思ったよりずっと面白かったし、映画との差異などをも興味深かった。この感想については、近いうちに雑文的独白にアップする予定。

△ 給料がちょっと上がってうれしい。


<5月14日・木>
◇ 帰宅するのが面倒なので、仮眠室で3時間ほど眠る。本を読み始めるが、今ひとつ面白くない。


<5月15日・金>
○ 嵐の後の静けさというべきか、今日はとりたてて大きな仕事がなかったので、時間が余ったときにせっせと映画の感想を書き進める。今進行中なのは「エイリアン4」と「女ざかり」。それに、「アマデウス」の感想にも手をつける。けっこう文章を書くのが楽しい時期に来たらしい。

◇ めずらしく仕事が12時ぐらいに終わったので、深夜に六本木のABCに出かけて本を買う。ああ、この時間に本が買えるなんていうのは便利すぎるので、このパターンをつい多用してしまいそうだ。焼鳥屋で一杯やって帰宅。


<5月16日・土>
◇ 府中に出かけて生まれて初めて競馬にチャレンジ。適当に競馬新聞を買って、適当に買うのだがなかなか当たらない。一度は、アニメ買いということで「グランジャー」(一応解説すると、ブレンパワードのグランチャーがモトネタね)を買ってみるが、これもそれなりの人気があった割にはパッとしなかった。本命の11レースもはずして、結局12レースで1000円ほどあたる。トータルで2600円ぐらいのマイナスだが、映画を見たと思えばそう変わりはないか。ともかく天気がよくて、気持ちがよかった。昼にビールを一杯飲んだら気持ちよくて、地べたに寝ころんでいるうちにそのまま眠ってしまった。
 最後に明日のNHKマイルカップを900円分買って変える。

△ テレ東の「ジェリー・イン・ザ・メリィゴーラウンド」を見る。と、Bパートが始まった途端に、「実は脚本がここから先できていないんです」と、キャラクターがカメラ目線で話し始めるというメタフィクショナル(笑い)な展開。脚本家の伊丹あきさんが登場して、なんで書けないんですか?ってキャストに質問されたりしてるーとおどろいて見ていたら、さらにハワイ土産をもって原作者安野モヨコさんも登場。そのまま、みんなで今までで一番印象に残ったシーンなどを語り始めると、もはやドラマではなくてノンフィクションというかバラエティーというかNG集というかそういった内容になっていた。
 これまで何度かビデオを回しながら見ていたのだが、今回は録画をしていなかったことが悔やまれる。
 もっともこのドラマは、役者達が好きにはしゃいでいるのがすごく楽しそうな風景として映し出されていて、そこが魅力なのだから、物語がなくなってもいっこうに困らない、というのも正直な感想。まあ、だからその分伊丹さんが苦労していることになるんだろうけれど。
 果たして来週はちゃんとシナリオが完成しているのか!?

○ ぶんか社が1度目の不渡りを出したというウワサ。「RIONA」の売上げは焼け石に水なのか、干天の慈雨か? 学研がマンガから撤退、宙出版もマンガ部門を縮小する傾向にあるらしい。不景気なウワサばかりであることよのう。


<5月17日・日>
◇ 昼に起きて、会社にやりわすれた仕事をちょっとやりに出かける。帰りに神保町に寄っていろいろ本などを買い物。最近、いろいろ本を購入しているのだが、それをいちいち書くとあまりに面倒で、ただでさえ滞りがちな日記なのでそういうのは気が向いたときだけにしようかと思ってます。まあ、この日は唐沢なをきの「からまん」などを買ったわけですが……。中古のLD屋で「クリーミーマミ」の「ロンググッドバイ」や、クラッシャージョーの「氷結監獄の地獄」「最終兵器アッシュ」などを手頃な値段で発見して、もの凄く悩むが、とりあえず見送る。

○ NHKマイルカップは、とりあえず枠番で当たった。といっても900円掛けたうちの、100円分なのでまあトントンかな。一応今回もアニメ買いということで、一番人気の「エルコンドルパサー」(一応、解説するとこれは「コンドルは飛んでいく」という意味の名前のはずで、同名の曲が、ちまたで評判の悪い(笑い)「時空転抄ナスカ」のエンディングであることに由来している)を軸に買ったのがよかったのだろうか?

△ あとは昼寝した後に、明け方までちょっとした小遣い稼ぎ。おともはWOWOWでOAされた実写版「ブラックジャック」。ウワサには聞いていたが、なかなかの完成度。一番のヒットはキャストで隆大介もスチル写真で見る以上にそれらしく見えたし、特筆すべきはやはりピノコだろう。あの子は、確かにピノコだ!。ついつい明け方5時まで、全3作を見てしまいました。
 原作をいくつか付き混ぜたようなシナリオはちょっとグルーブ感がたりず、物足りないところもあるが、まあビデオ作品なら及第点でしょう。全体のテーマに欠けているため、お話の軸がエピソードごとに多少ずれるのが欠点ではある。
 しかし、実写であの無菌のビニールを使う屋外手術のシーンとか、ピノコの誕生のシーンを見るとそれだけで涙が出てくるところがありますね。しかも、本間丈太郎先生がなんと、せがた三四郎・本郷猛こと藤岡弘@SFソードキル<くどいか。燃えない理由はないですよ、みなさん。<誰にいってるんだか。


<5月18日・月>
◇ 仕事も一段落して一服状況。夜は池袋で打ち合わせというか、かなりの部分は雑談か?

○ 昨日から「日本・現代・美術」(椹木野衣、新潮社 3200円)を読み始める。難しいけれどいわんとしていることは分かるような気がするし、ここで椹木氏が指摘しようとしている日本の風土の特徴は決して美術の世界のことだけではないだろう。そういう意味で、やはり本文にも書かれているが、この本のタイトルには各単語の間にナカグロが必要だった意味はひしひしと伝わる。
 また、同書の中にあった「ニヒリズムは克服されるのでなく、つきつめられなければならない」というフレーズはすこぶる刺激的。おそらくコレは97年にアニメを舞台に行われていた、あの闘いの一つの答えであるに違いない。ものすごく勝手に思考回路がぎゅんぎゅん動く。

△ 最近ふとりぎみといいながら、命の水をまた晩飯に……。


<5月19日・火>
◇ いつも読んでいる、クソゲーハンターABC氏と、トリック空耳情報松谷創一郎氏の間でケンカ(と、呼んでいいだろう)が発生している。ことの発端をボクが見聞きした範囲で、まとめてみると以下のような感じになるだろうか。
・松谷氏 ABC氏の「超クソゲー」の「太陽のしっぽ」レビューについて、日記で「ボクちゃんくさい」「純ゲーム主義者であることが露呈した」などとネガティブな感想を書く。
・その後、加野瀬未友氏の掲示板で、ABC氏が「センスを認めた上で手抜きでしたよ、といっているように書いたつもりだったのですが」「セングラとときメモ、太陽のしっぽとアクアノートの休日をそれぞれ最低10時間づつ遊べば、超クソゲー中で俺が言ったことを少しは理解してもらえるかもしれません」という趣旨の発言をする。
・松谷氏は、先日の日記に書いた感想について、いくつかの疑問に答えるかっこうで、松谷氏が「なぜそのような発言をしたか」について詳細に解説。
・松谷氏、友人から来た「汗くさいオタク」の話を題材に、「ボクちゃんダメ論」を日記で展開。
・ABC氏、松谷氏のその発言を捕まえてかっこわるいと発言。
2人はその間にメールを交換しているらしいので、もうちょっと込み入った事情があるようだが、こんな風な流れだとボクは捉えている。けっこう興味深いテーマがここには潜んでいると思うので、これを肴に自分なりに考えを深めてみたいと思う。

○ さて、問題を整理してみると、2点ある。まず一つは、「太陽のしっぽ」の評価に代表されるゲームの評価方法。2点目は、その評価の文化的背景=ボクちゃん問題について、である。

△ 「完全に独り善がり、デティールにこだわりすぎ、眠くなるか恐ろしいほど退屈するかのいずれか」というのは、「2001年宇宙の旅」が公開されたときの、ニューヨーク・タイムズの批評だそうだ。(上の文章は、未来映画術「2001年宇宙の旅」(晶文社)から)。今では傑作と定評のある2001年だが、公開当時はその「わけのわからなさ」故に人々を困惑に陥れていたわけだ。
 なぜ、これをここに引いたかというと、2人のスタンスの差というのはつまり、ゲームにおけるある種の2001年のように登場してしまった、「前衛」をどのように受け止めるか、という風に言い換えが出来ると思うからだ。ここには、ゲームだけには留まらない、他のジャンルにも当てはめることが可能な「問い」が潜んでいるように思う。ここでの前衛とは「「あのようなものは××ではない」と呼ばれることが前衛の条件ですらありうるのである」(「日本・現代・美術」椹木野衣)というような意味で使っているのだが……。

 ABC氏のスタンスは、映画の比喩を援用するなら、ハリウッドのプロデューサー的といえる。「太陽のしっぽ」のレビューで、「実作者であるというスタンス引っ込めた」といいつもその点はあまり変わっていない。「手抜きに思えた」という掲示板の発言からも、「アイデアはいいけれどブラッシュアップが足りないね」というスタンスでクソゲー認定したということがうかがえる。
 このスタンスは、ゲーム産業全体を考えるなら不可欠なものだ。アメリカ映画にあって日本映画にないものは、この種の製品管理である。こうした視点は、ゲームあるいは映画の業界全体の「平均点」を上げていくには必要になってくる。そして、はずれが少なくなることで、娯楽としての信頼度は高くなり、業界は安定して発展することになる。
 ただ、忘れていけないのは同時に、この視点が圧倒的に強力になっているため、ハリウッド映画ははずれもない変わりに、味も均質な「ファミレスの食事」みたいな映画ばかりになってしまったのである。(それでもクソ映画がアメリカで生まれるのは、産業自体がとてつもなく大きいからである)。

 一方、松谷氏の反論は、「ハリウッドのプロデューサー」的視点では、ジャンルの方法論に対する批評性をすくい取れないという風に要約できる。ハリウッドのシナリオ主義(クオリティをキープするための第1段階だ)を批判したゴダールに、松谷氏のスタンスを重ねることも、この対立図式の中なら可能だろう。そして、松谷氏の視点は、ヒット作の後追いなどで均質になってしまいがちな産業がどんな次の芽を生みうるか、という進化の可能性を確保する上では絶対に欠かせないのである。ただ、そうした作品は「進化の可能性」であるが故に、産業的には主流にはならないであろうし、評価も分かれるであろう。「2001年」が公開された時と同じである。
 だた、映画や文学、美術などと違い、ゲームという産業における「前衛」というものがはっきり成立していないので、この「前衛」というポジションは理解されにくいはずだ(そもそも本流そのものの歴史が浅い)。だから、一般的にゲームに触れている人一般が「前衛」をそれと認識しない可能性があるのは、「前衛」をプッシュする側としては知っていた方がいいしと思うのだ。

 つまり、こうして考えてみると、ある産業が健全に育つために必要な二つの相反する意見を2人が代弁しているように思える。この2つは絶対相容れないけれど、両方とも必要で、そういう意味では絶対に2人の意見は落としどころがみつからないだろう。強いて言うなら、お互いがお互いのモノの言い方で気に入らない部分(笑い)を除外して、とりあえず相手の立場を理解できるかどうか、とういことだろう。


△ で、文化的背景=ボクちゃん問題について考える。
 「平均的」というのは誰もでないというパラドックスを持っている。ある集団を代表するような平均的人物像とは、決して集団の各個人ではないのである。平均像のイメージは社会的に共有されてもいるけれど、あくまでもイメージなのである。例をあえげると、労働者を搾取している資本家とか、青少年の健全育成に血道をあげているPTAのオバサンとか、援助交際している女子高生とか、そういう存在なのである。こういう仮想的を想定して、批判するのはすごく難しい。その仮想敵は結局、個人差のなかに紛れ込んでしまうのである。そういう意味で、松谷氏のボクちゃん批判は、そういう種類の不毛さを根底に秘めているように見えるのだが……。しかし、関係ない人々になぜあそこまで批判精神を燃やすのかは、個人的には疑問である。

 対する、ABCの反論のほうは、ストレートといえばストレートである。ただ、これも広い意味で個人差の中に、オタク像を拡散しているだけで、なんでシタッパーズにそういう人物像が多い(と思われている)という根本の問題(世間的オタク像の否定)にはなっていない。客観的には、松谷氏の持っているオタク観に近い人が世の中には多いと思われるのだが、それを、ひっくり返さないと松谷氏の意見の否定にはならない。まあ、これについては別に否定しなかったから”負け”になるような性質の会話ではないのだけれど。

 ともかく、このボクちゃんという不毛なイメージを挟んだ不毛な対話に、第3者であるボクが何か期待するのであれば、オタクではなく趣味人の正しいありようが、一片でも示されれば、ということであるが、これは、今の調子で有れば無理であろう。もし、お互いのグループのポジションが気に障るのであれば、別に互いに「バカは死ぬまで直らない」と思っていれば済む話なのだからなあ。

なんだかあまり、文化的背景について考察できなかったのだが、まあ、俺的には概ね気が済んだので、とりあえず今日はここまでにしておこう。

○ ビデオで「ミクロコスモス」と「ヘラクレス」を見る。「ヘラクレス」は、確かに演出などがこれまでのディズニー映画と違うところが散見される。ハデスはキャラ立ちしていて、なかなかいい感じ。悪女ヒロインメグなどは、日本のアニメの描写を参考にしたのだろうか?そういう印象がのこる造形だった。また、細部にも映画のパロディなどがあったようだが、ディズニーも作風が変わったのだろうか? 


<5月20日・水>
◇ さっさと起きて、洗濯をしつつ自宅で電話連絡など。その後は池袋へ出向いて、趣味の本・仕事の本をワラワラと買い込み、ホームレスのおじさんの引っ越しのような荷物で会社へ向かう。パソコンを持ち歩くのをやめれば荷物なんて半分以下になるのだが、やはり仕事では不可欠。足りなかったデータが土壇場で見つかって、あわててインターネットを使って集め、なんとか乗り切ったなんてことも2度や3度じゃない。しかも、最近は平凡社の百科事典(CD−ROM)まで持ち歩いているので、いつ何時、18世紀後半の宮中の作法を知る必要が出てきても(そんな項目が百科事典にあるかどうか知らないが)大丈夫である。まあ、これはボクがつまり小心者の心配性ってことなんだけれどね。

○ 特筆するようなこともなく、仕事仕事の一日で夜が明ける。昨日の日記で久しぶりに多少アクセスが増えたようである。まあ、そのためにやったわけじゃないけれどね。ただ、週一回更新のペースになってから、ガクっとアクセスが減ったのも事実。カラメールボタンも押してくれる人は押してくれるという状況で、なんとなく大海に浮かぶ小舟になったような気持ちである。<ウソ。

△ そもそもこのページを始めたのは、ストレス発散のためで、それは今も全く変わっていない。このページの中身は、そういう意味では自分の常識を前提として作っているとこばかりである。それがいいかどうかと考えれば、やはりオレ的にそれでいいのだと思う。結局、同義反復ばかりのようだが、それは21日の明け方という時間が、オレを狂わせているわけだ。やれやれ。

△ それにしても、最近思うのは、もっと文章が上手くなりたいということだ。特に書ける文章のパターンをもっと増やしたい。日記は、好き勝手にデスマス調と、ダデアル調を混在して使っているのだが、そのほかの文章はできるだけ統一したスタイルで書こうと思っている。でも、そのスタイルが1種類しかないのだ。自分で文章を書いていると「シリアスなのが一番楽。一番難しいのがエンターテインメント」と語っていた富野監督の言葉を思い出す。そうなんだよな。ガチガチに書くのは楽なんだよ、ホント。でも、だからこそそれを越えなければならないってわけだ。「パターン化した文章を乗り越えるためにも」。やっぱり、丸谷才一のエッセーの全文書写でもやろうかなあ。

○ そういえば、私信>関西在住の古川@Ludens氏、パラサイト・イヴはGW中に読み直したので、またメールのお返事は出すつもりです。時間があったらですが……。


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