近代人サリエリ 


 映画「アマデウス」は、とても好きな映画の一本だけれど、舞台版を見たのはこれが初めてだった。キャストは松本幸四郎がサリエリで、モーツァルトが市川染五郎。舞台のサリエリは、しゃべり通しで、物語のさまざまな状況や自らの心理を解説し、吐露していくのだけれど、幸四郎のシリアスになりすぎない話芸はなかなか見事だった。

 で、この舞台を見て気になったのは、ピーター・シェファーはサリエリを明らかに近代人として描こうとしているのではないか? ということ。そうして考えてみると、映画にもキリスト像を暖炉にくべて燃やしてしまうシーンがあったなあ、なんて思い出したりもする。
 でも、映画ではそういう要素は押さえ気味で、モーツァルトとの確執のドラマのほうにうこそ比重が置かれた脚本だったように思う。それが映画と舞台という表現方法の差にまつわる理由なのかどうかはまた別の問題になるが、とにもかくにも舞台版では「サリエリは近代人である」というテーマが、映画よりもっと前面に出ていることは間違いない。

 映画版では、神は上にいて、その下でモーツァルトとサリエリが向かい合っているという印象だったのだけれど、舞台版ではちょっと違う。モーツァルトは神の笛と例えられていて、むしろサリエリと神がモーツァルトを挟んで向かい合っている、という感じだ。少なくとも、この対立の作り方の差が、サリエリが映画では近代人に見えず、舞台ではそう見えた理由だったのだろう。
 まずサリエリは、自らを作曲家にしてくれたらあなたをたたえます、という契約を「神」と結んだ。このへんはもしかすると、近代以前という感じもするけど、つまり彼も最初から「自分のことは自分で決める」という発想を持つ近代人ではなかったということでしょうか。それが、神は自分ではなくモーツァルトを愛しているのだ、と悟った瞬間から、彼は神の呪縛から説かれて近代人になったのであろう。

 ためしに百科事典で近代に関係する関係箇所を調べてみると「近代社会の特徴の一つは,個人が自分の才能や意志や思想に忠実に生き,そのかぎり近代的自我を確立するということである」「(近代社会は)個人的自我意識の確立をとおして解放を準備する」などとある。
 サリエリは神に否定されたと感じたことから、まさに自分の意志や欲望に忠実に生きるという近代的自我に目覚めたのでしょう。事実彼は、神に裏切られたとたんに禁欲の誓いは破るし、それまで押さえてきた欲望に忠実に行動する。舞台ではそのあたりがちょっとコミカルに演出されていて、彼にとっては破戒の行為なのだが、自分の意志で生きている喜びに溢れているように見える。
 その点、映画では徹頭徹尾神を恨むものの、そこには開放感はない。むしろ、否定しようとするばかりに、かえって神の手のひらからは逃れていないように見える。 だから、舞台版の「私は全ての凡庸なる者の神である」というセリフは、自らの敗北を受け入れる宣言であるのだが、松本幸四郎の声には晴れやかさがある。それはそのセリフが、彼自身の中で神が死に、自らが神であるという一種の神からの独立宣言にほかならないからである。

 近代人が生まれる瞬間というのはかくも輝かしいものなのだ。今は、朝起きてから夜寝るまで、全て自分で決めなければならないことばかりだ。だから、自分の才能を見切るのも、信じるのも自分以外にいない。近代人であることのツラさばかりを感じて生きていると、ふとサリエリが羨ましくなったりする。
(98/05/18)
※ いつもと文章を変えて書いてみたら、失敗しました。やれやれ