1998年5月上旬


<5月1日・金>
よりも◇ 今日も早起きして、賢島で小学生の夏休みの宿題のような工作にちょこっとチャレンジする。それから、これまた生涯で4度目の御木本真珠島へ出向く。なんだかちょっと前にマンガ批評家(笑い)いしかわじゅん氏といろいろあったような、漫画家、藤臣柊子さんが絶賛していた「真珠丼」を食べる。内容はマジメにつくった、貝柱入りかき揚げ丼で、ボリュームもあり満足度満点。ここを訪れた人は、食べてみる価値は十分あるだろう。その後、フェリーで伊良湖へわたり、浜松のイケヤ文楽館可美店での休憩を経て、藤枝へ。藤枝に帰ると、妹夫婦が登場しており、そのまま焼津の中華料理店に。そこでたらふく栄養補給して、東海道線、新幹線と乗り継いで、午前零時に帰宅。

□ 新幹線の中などで、「辺境・近境」(村上春樹、新潮社 ○円)をほぼ読了。

△ 深夜に「熱砂の覇王 ガンダーラ」をOAしていたが、その演出のヘタレぶりに唖然。


<5月2日・土>
◇ 2度寝して、昼過ぎに起床。心持ち部屋などをかたづけるふりをして新宿へ。待ち合わせの時間までまだ間があったので、雑誌「H」「コミッカーズ」「日経エンタ!」を買い込みつつ、喫茶店で「文学するコンピュータ」(榎本正樹、彩流社 2200円)をほぼ読了。それから、居酒屋、カラオケ(1時間のみ)、バーと展開し解散。ちょっと小腹が空いたので、個人的に歌舞伎町の「天下一品」で一杯&一杯&読書やりつつ帰宅して、「ブレン」と「ジェリー」。

○ 私と天下一品。私の学生時代に”同居”(笑い・注釈は長くなるうえに、本題と関係ないので割愛)していた先輩が、ラーメン好きであり、そこから私もラーメンを意識して食べるようになった。その、当時深夜にラーメンを食べに行くなどしていた(地口の相方ともいう)同級生が、滋賀県出身で京都の予備校に通っていた経験の持ち主で、「天下一品」の濃厚な味のうわさはかねがね聞いていた。当時は、名古屋に「天下一品」はなかったのである。ある日には、彼が「天下一品」の持ち帰りパックを名古屋に持ち帰ったが、調味オイルを忘れたため、適当に味を調整して、某先輩の家で食べたこともあった。
 やがて、私が卒業で名古屋を離れた後に「天下一品」が登場し、さらに、浜松市でも私が転職した後に、やはり「天下一品」が開店したのだった。どうも、「天下一品」とは行き違う運命のようなのだ。

☆ 「文学するコンピュータ」では、古典的な物語のままでありながら、何故人はRPGに感動するのかについて、ゲームをすすめるという「個人的体験」の積み重ねが重要な意味を持つという指摘があった。というこれと類似しているようで違う話題なのだけれど、テレビアニメというフォーマットも個人的体験を積み重ねるという要素が強いのではないだろうか。その分の感動の大きさが、ビデオアニメでもテレビフォーマットを採用した作品が多くなる理由だろう。  


<5月3日・日>
◇ 起床したら「魔法のステージ ファンシーララ」がOAされていた。主役の声優がお約束通りへたくそで笑える。演出は並。

○ 新宿で昼食を食べ、東京タワーを冷やかして、渋谷へ。映画「ドーベルマン」を見る。内容、というようなものはあまりなく、派手でやかましいタイプのバカ(ホメ言葉)映画。「若い人に今、人気の」という枕詞がぴったりあいそうな、いい意味ので大味さと、ノリのよさがある。音量の大きさと画面の迫力がその魅力の何割かなので、ビデオでみたらもっと辛口の評価になるだろう。ほんとにストーリーは何もないからなあ。

○ 某所ですきやきをご馳走になって帰宅。話題は、日露戦争から宇宙の話までいろいろ。ごちそうさまでした。


<5月4日・月>
◇ 起床したら「烈&豪」の劇場版がOA中。劇場版ならではのイベント性が十分あって、こりゃ燃えるわけだ。映画的にというよりは、まっとうなアニメ的演出だが、こういう作品ではむしろ心地よい。その後、ここ数日はバタバタしていたので、昼寝をしつつのんびり過ごす。空腹になったので「あ、アレ食べよう」を食べたりしつつ過ごす。

○ 「ポケモンの魔力」(大月隆寛そのほか、1500円 毎日新聞社)を少し読む。新聞記事の迷走ぶり、的確なフォローを改めて検証するのは丁度いい本。強いて言うなら、大月氏の「ガキのオモチャに夢中になっているヒマはない」という、氏独特のべらんめい調風の「大人のものいい」から漏れる「何か」こそがこの本に足りないということは確実にいえるだろう。そういう意味では、大月氏は民俗学者のわりにはずいぶん「ハイ・カルチャー」寄りな立場なんですなあ。ちょっとそういう物言いにはボクは違和感があるけどなあ。世に流布する塵芥を丁寧に拾うことこそ、民俗学ではないのだろうか?
 ところで、この本の新聞記事をまとめた「ニュース・ファイル」、版元が毎日新聞だけに著作権には注意していると思うけれど、そのへんどうなっているのだろうか? 

△ 夜はとある事情で音なしでWOWOWの「失楽園」を見る。音なしでみると、映像の持っている意味と力を直接考えながら見ることになるので、映像ファンにはオススメの方法である。実際、この映画はセリフはちょっとボクの”口”に合わないタイプのものが多く(原作の責任)、音を消した方が楽しかった。森田芳光は、器用すぎる監督である。

○ 少し前の話題になるが、渡辺淳一が週刊文春のエッセイで、「タイタニックは面白かったけど、船底に手錠付きで置き去りにされたり、船首に2人で立ったりして、ちょっとリアリティがないのでは」(大意)といった趣旨の事を書いていたが、「友人の医師のところから、いともかるがると青酸カリを盗んでしまったうえに、2人でつながったまま死ぬ」のはリアルなのかな? おまけに、日本映画「うなぎ」(と、CURE・誤植でCUBEになっていたけれど)はビデオでみれば十分というナイスな発言も。さすが、日経に連載していただけあって、経済観念はばつぐんだ。


<5月5日・火>
◇ 映画「エイリアン4」を見る。アクションにちょっとめりはりがないものの、エイリアンの持つテーマをここでまた一歩深めた意欲的な作品であり、完成度もかなり高かったので、大満足。監督の起用は成功だった。シガーニー・ウイーバーが熱演の分、ウイナノ・ライダーがちょっとわりを食っていたかも知れない。

○ 晩飯にカレーを食べて、帰宅。WOWOWで手塚治虫のドキュメンタリーを見て、そのまま映画「ジャングル大帝」をうつらうつらしながら見る。あらすじはあるがドラマはないという典型的な失敗シナリオ。そもそも登場人物の誰を観客に見せようとしていたのかが全く不明だし、そうなると細部の矛盾や都合のよさ(死斑病の原因が不明なのに、ヒゲオヤジが特効薬を持っているなど)も気になってくる。一番印象的なのは立川談志のハム・エッグ。非常に生臭くてよかった。CGの合成は非常にオーソドックスで違和感がなくてよかったのではなかろうか。

◇ ところで「現代詩手帖」と「日経サイエンス」どちらが高いと思いますか? 参考までに「現代……」は、220ページほどの月刊誌で平綴じ、カラーページはなし。一方「日経……」も月刊誌。140ページの中綴じで、全ページカラー。当然ながらカラーの多い「日経…」が1400円、「現代…」が1200円でというのが正解なわけですが、実際手にした「もの感」(厚さ、重さなど)だけ比べると、「現代…」のほうがだいぶお買い得感があって、しばし値段が逆なのではないかと、考え込んでしまった。

○ 「日経サイエンス」のお目当ては、森山和道氏の「読書日記」。フレンドリーなタイトルとは裏腹(?)に、「こんなものは『書評』ではない、といった書評に対する態度についてのご意見は受け付けないのでそのつもりで」(要約)というストロング・スタイルのイントロに、どちらかというと「書評」部分にこそ力を注ぐのかなと想像する。個人的にはネットで日記も書いている森山さんなので、ちょっとは身辺雑記を書評の枕なんかにしてくれると楽しいかもと、野次馬的に期待する。


<5月6日・水>
◇ 仕事にでかけるが、ぼーっとして休みボケ実行中である。体重は休み中にばっちり増えたけど。とこかく会社に行けば、仕事は続くよどこまでも、という調子で結局7日朝方に帰宅。

○ 「ポスト・ヒューマン・ボディーズ」(遠藤徹、青弓社 2400円)を昼食時(巣鴨のてん屋)から読み始め、100ページほどまで読み進める。変身をキーワードにした6章からなる考察、とでもいうべき内容で、興味深いところ、それは考えすぎ(あるいは牽強付会)ではないかと思うところが混在している感じ。エイリアン4の感想を書く参考になればという、狙いもあったのだが思ったほどには参考にならなかった。

○ 文化系の論文?というか論考−つまりは上記の本のようなもの−を読むといつも感じるのだが、レトリックと論文のキモとなる「構造」が渾然一体となっていることがしばしばあって、ボクにとってはけっこう居心地の悪いものがある。自らの論を証明するための文章なら、証拠の部分とレトリックが渾然一体となるのは避けて欲しいというのが正直なところ。でも、そんな文章はガチガチで、潤滑油のないエンジンみたいなものだ、というのも分からないではない。そもそも、ボクの文章はそういう風になりがちだ。
 ともかく、そんな自分のことを棚に上げて、いっそこのことレトリックと発想のおもしろさで書くのなら、そんなに難しい文章でなく、テクニカルなエッセイだっていいじゃないかと思うことがあるのも事実。そんなことを考えながら、「男もの女もの」(丸谷才一、文藝春秋 1333円)を拾い読みする。
 文壇の政治家なんて揶揄されているし、わが母校(笑い)河合塾にあやつけてきたこともある−どうやら氏は代ゼミ派らしい(笑い)−人物ではあるのだが、それでもエッセイは読むごとに感心させられる。


<5月7日・木>
◇ 渋谷の午後3時過ぎ、日差しと湿度に夏を感じた。だが、まだ本当の夏は梅雨のヴェールの向こうに隠れている。今日は、いわばクリノリン・スタイルのスカートのスソからのぞいたくるぶしのようなもの。

○ 夕御飯時に「ポスト・ヒューマン・ボディーズ」を読み進める。ほぼ読了。仕事が忙しいので現実逃避をしているといわれても差し支えないかもしれない。帰宅後は、会社からくすねてきた「現代百物語 新耳袋」(木原浩勝、中山市朗、メディアファクトリー 1200円)を拾い読みするが、怖いのでやめる。ああ、自宅で持ち帰り仕事をするつもりだったのに……。

△ 偶然にあいさつを交わした方たちが、ネット上でよく名前を拝見している方でびっくり。今後ともよろしくおねがいします。(ってむこうはこのページを知らないので、ここに書いても無意味だが)


<5月8日・金>
◇ なんだかんだと仕事が遅れ、土曜朝まで仕事がかかってしまう。

5月9日・土>
◇ 一睡もせず、新幹線に載って静岡へ。友人の結婚式である。この友人を含めた4人は、小学−中学時代からの腐れ縁で、1年に一回はかならずどこか(主に地元で)で集まっているのだが、ここ数年は4人がバッチリと揃うことは少なくなっていた。最後の揃ったのは2年前に浜松の僕の社宅だったはずだ。SSを持ち込んで、デカスリートをやっていた。(その10年ぐらい前は、当然ながら同じメンツでハイパーオリンピックに燃えたこともある)。そんな思い出話はともかく、今日は残りの3人で受付役である。

○ 結婚式は人前式。ほとんどが親戚ばかりのこじんまりとした式で、結婚式場でやっているのに、けっこうアットホームな雰囲気だった。新郎は、低身長ばかりのボクらのなかで一番背が高く、モーニングがの決まっていた。新婦は白ドレスも和装もどちらもオーソドックスで、かわいらしかった。

△ 披露宴では親戚一同のカラオケがおこなわれたが、これも身内ばかりということでそんなに大騒ぎにならず、アットホームな雰囲気で進行した。当然、みんな伴奏付きで歌う人ばかりなのだが、そのなかで、彼の祖母が歌った「岸壁の母」は、とても印象的だった。
 伴奏はない。しかも、彼女の歌は、歌詞を思い出しながら歌うためか、時々滞りがちである。でも、そこには孫のめでたい日を、なんとか自分流に祝おうという衝動あるいは、激情というものすら感じられた。これが、もっと若い世代なら、その衝動を吐き出す方法を会得しているわけなのだが、彼女は自らの気持ちの受け皿に、数少ない彼女の知っている歌−おそらくーを選ぶことしかできなかった。
 洗練というのは、どこかで認識パターン化、自動化とつながっている。でも、彼女の歌ははそんなものとは無縁だ。彼女の歌はそこから最も遠いところにあり、それ故にそれまでのお祝いのカラオケが全て無意味になるような力を秘めていた。

◇ 結婚式が終わり、受付をした独身2人と既婚者1人はその奥さんと合流。お茶をしてから、新郎新婦を呼び出して、これまたこじんまりと2次会。両替町へ繰り出す。実はこの友人連4人でそこに女性が2人も絡むという飲み会は初めてかもしれない。まあ血液型占いなぞ信じないのだが、このうち3人がAB型というのはなかなかマレなケースだろう。飲みながら血液型談義にも花が咲く。

○ 飲んだ後はカラオケ。最初は新郎がふり付きで「ギンギラギンにさりげなく」を披露するなど普通?に歌っていたが、パタリロED「美しさは罪」を歌った奴(B型)がいたため流れが変わる。なにしろ、後ろに流れていたビデオがタツノコ作品オンパレードで、ゴーダムなんぞもあったことから、男性陣のアニメ魂に火がついた。というわけで、新郎もアニメタル関連を4曲いれるは、女性陣にはアニメタルレディー歌わせるはのやりたいほうだい。そんな騒ぎも終わって、帰り道ではヨコハマ・ジョイポリス企画が持ち上がってお開きとなる。

△ 帰宅してカレーを食べながら父とワインを2本。


<5月10日・日>
◇ 昼前に起きて、東京へ帰る。けっこう疲れているかも知れない。車中で熟睡。帰宅前に書店に寄ってアニメ誌などを買い込む。

○ WOWWOWで映画「クルーレス」(日本語吹き替え版)、それから録画しておいた「ブレン」、それに映画「マルタイの女」を見る。なんだか疲れているのか、気分がいまいちのらない夜。楽しい週末だったその反動か、なぜか現実逃避したい気分だ。

◇ 「マルタイの女」。うーん、「大病人」をちゃんと見たわけではないのだが、伊丹映画の中では一番つまらないかもしれない。監督らしいカットはあるし、端役のキャスティングの妙もいつもどおり。でも、お話がバラバラだし、なんといってもドラマが薄い。どうせなら、もっと群像劇にするのも一興だったかも。でも、それだと「マルタイの女」という主軸からはどんどん遠くなるか。それにしても、津川雅彦の”自殺”シーンは必見かも。「クルーレス」は、アリシア・シリバーストーンの衣裳が一番のポイントでは(ファッションオンチだから細かく描写できないが)。それにしても、彼女はむっちりしているわりには、以外に胸は小さいような。年取ったら太るタイプと見た。こういう風俗を描いた映画は、字幕より吹き替えの方がニュアンスが伝わるのではないだろうか。
 「ブレン」を見ていると、セルのキャラクターをどのように生身に感じさせるとか、そういう演出家の目線や技術の観点について考えさせられる。ここんとこアニメを見るときはストーリーやキャラなどそっちのけで、カメラアングルと人の出入りについてひたすら考えているのだった。


もっと過去

偽名日記へ

RN/HP

もう少し未来