突如知らされた女王試験の実施。
私は、その日、試験に関わる者達の履歴を記載した書類に目を通していた。
二人の女王候補と、三名の教官、三名の協力者。
そのうちの幾名かの履歴に、私は複雑な感慨を覚えた。
中でもひとりの女王候補と、やはりひとりの教官の名前。
補佐官のアンジェリークは、このことをどう思っているであろうか。
女王候補の選抜は陛下の御意であったとしても、教官の選抜は何も彼である必要がないではないかと、私は愚かにもそう考え、すぐにその考えを打ち消した。
そのような感慨を持つのは私の余計な感傷であって、
彼女自身は既にそのようなものは乗り越えているに違いないのだ。
数年前のサラトーヴの災厄と、王立派遣軍の犠牲。
―― 王立派遣軍。
この言葉は、私の心に波風を立てる。
だから、先ほどの考えも補佐官のことを思いやったわけではなく、おそらくは。
おそらくは、その言葉に私自身が感傷的になったたけのことなのだろう。
かつて、『王立軍』と呼ばれていた組織が、大規模な軍規の改定とともに『王立派遣軍』と名を変えてから、外界では四半世紀以上もの時が経ったのだ。
陛下や補佐官はもちろんのこと、歳若い守護聖もこのことを詳しくは知るまい。
風の守護聖交代の直後に起こった、あの事件のことを。
私は、書類の束を退けて、前任の緑の守護聖から、皆宛てに届いた手紙を手にとった。
四半世紀以上の時。
それは生まれたばかりの赤子が、成人し、幸せな結婚をするくらいの時。
もしくは、十代だった少女が母となり、その息子が青年となるくらいの時。
聖地でさえ、幾年かの時が過ぎたのだ。
鋼の守護聖が交代し、緑の守護聖が交代し、そして女王試験が行われ ――
なのに、私の心の中で、時間はあの時のまま凝っているのではないかと思うときがある。
何処までも自由に、風のように生きた古い友人とは違い、
何も変わらず、いや、変われずにいる。
王立派遣軍と名を変えて、新たに使命を帯びた組織。
それは、彼の願いだった。
―― エドゥーン、
そなたの望んだ夢は、今も王立派遣軍の活動の中に生きている。
目を閉じた。
脳裏に、浮かぶ何処までも続く草原とその草を分けて走る風。
そこは草原の惑星。
オスカーの故郷であり、エドゥーンの故郷でもあった惑星。
そしてその西の草原では遥か昔、私の前任の光の守護聖がツァルファールという王国を興した。
その国が、オスカーの故国だ。
もっとも、その国は、オスカーの就任とほぼ時を同じくして滅んだと聞く。
最後の王の名は、フェリシアと、言ったか。
その時のことについて、オスカーが自ら何かを語ることはない。
エドゥーンに尋ねたことがある。ツァルファールは、そなたの故国でもあるのではないかと。
友人はめずらしく真剣な顔をした。
おそらくは、オスカーの心中を思いやったのだろう。そして答えた。
ツァルファールは自分が生まれた草原とは、遠くはなれた西方の国だと。
歴史を見れば、ツァルファール王国と草原の覇を争ったこともあったが、それは長い期間ではなかったと。
自分達は放牧をして生きる草原の民。
その草原さえあったなら、王などいらない。
裸のままの馬にまたがり、何処までも続く草の海をかける。
羊を追い、草を求め、遥かな草原を旅する民。
広がる地平線、草のしとね、星の天蓋 ――
いつだったろうか。遠乗りで出かけた聖地の南の丘。
広がる草地に、彼はそこが故郷に少し似ていると言った。
勅勒川 ―――― 勅勒の川
陰山下 ―――― 陰山の下(もと)
天似穹盧 ―――― 天は穹盧に似て
四野籠蓋 ―――― 四野を籠蓋す
天蒼蒼 ―――― 天は蒼蒼
野茫茫 ―――― 野は茫茫
風吹草低牛羊見―― 風吹けば 草低(た)れて 牛羊見(あらわ)る
故郷に広がる川原は 陰山(インシャン)のふもと
空は穹盧(ゲル)に似てまん丸で 四方に広がって大地を覆う
天はあおあお
野ははるばる
風が吹けば 草がゆれて 牛羊がのんびりしてる
(斛律金:「勅勒の歌」。
『勅勒』はトルコ系遊牧民族。
『陰山』はモンゴルの大山脈)

「すっげえんだぜ、こうやってねっころがるとさ、空が、丸いんだ。
オレさ、五歳で聖地に来たから本当はあんまり故郷のこと覚えてねぇ。
でもあの地平線だけは、覚えてんだ」
彼は手足を投げ出して草の上に仰向けになった。
「ジュリアスも、やってみろよ、そんなすかした顔してねえでさ。オスカー、おまえだって小さい頃やっただろ」
苦笑して、でも促されるままに私とオスカーは草原に仰向けになってみた。
空が、驚くほど青かった。
「空が、青いなあ。ジュリアス、まるでおまえの目の色みたいだ」
あのときの空の色と、エドゥーンの言葉を私はまだ覚えている。
エドゥーンが若くして聖地を去り、ランディと言う若者が新しい風を聖地に運んで。
平和であった聖地とは対照的に、不穏な気配を見せていた草原の惑星。
あの四半世紀以上前の事件を、当時私は他の守護聖たちに伝ることをためらった。
誰よりも、オスカーに伝えることをためらったのだ。
だが、黙っていることは彼の信頼を裏切ることでもあり、何よりも彼の誇りを傷つけるであろうこともわかっていた。
故郷を再びおそった悲劇。
それを聞いても、彼は表情を変えなかった。
ただ、一言、アイスブルーの目を閉じて
「心中、お察し致します」
そう私を気遣ってくれた。
彼は気付いたのだ。事件に関わった人々のリスト。
その中に、かつての風の守護聖の名があることに。
「―― エドゥーン」
私はその名を声に出して呼んだようだった。
「懐かしい、名だな」
突然かけられた声。確認せずとも誰だかわかる。
私は回想から我に返り、音もなく入り込んだ黒い影を睨み付けた。
「なんの用だ」
「……書類を今日までにもってこいと言ったのは、おまえの方だと思うが」
確かに、そうだ。
これまでなら私がとりに行って怒鳴らなければでてこなかったであろう書類を、少々複雑な思いで受け取った。
熱心、とまではいかぬまでも。
この者のですら、長いときの中で変わったのか。
「これからも、こうあって欲しいものだな」
「……たまたま、だ」
―― 変わったと思ったのは気のせいであったらしい。
怒る気もうせてため息をついた私を面白くもなさそうにちらりとみやり、そして彼はカティスの手紙に目を止める。
「縁(えにし)とは不思議なものだ……」
「そうだな」
その言葉には、賛成しよう。
「そういえば、教官の中に…… 面白い名があったな」
それは。
どちらの者のことを言っているのか。
「すべては星の……導きと言うことか」
言って、友とも呼べぬ腐れ縁の男は、部屋に来た時と同じく音もなく去った。
一言メモ:
カティスの手紙の詳細は
「梨花の散る夜―プロローグ」にあります。
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