梨花の散る夜に

プロローグ――潸潸と


あの日も確か
梨花は、潸潸と散っていた。
そのひとを 愛しむかの如く 
抱き締め 埋め尽くすかの如く
花びらは 雪のように
ただ、ただ、
潸潸と潸潸と。


聖地の夜は何事も無かったよう穏やかに更けてゆく。
虚無であるはずの空間から黒いサクリアが湧き起こり、聖地に害を為していたのがつい最近のことであったなどとは、ついぞ信じられぬほどのいつもの通りの穏やかな夜であった。
(月さえも眠る夜「闇をいだく天使」参照)
無事生還を果たした女王補佐官・アンジェリークも、しばし床に伏せってはいたが今では元通り元気になり、今週の初めから補佐官としての職務に戻っていた。
そう、何もかも「元通り元気」になった彼女であった。
そんな彼女を、聖地の仲間たち誰もが嬉しく思い、温かく見守っている。
その所為かどうか、「何事も無かったようないつもと変わらぬ聖地の夜」と表現してはみたが強いて言うなら何処かいつもよりやさしく、安らぎに満ちたそんなある夜の出来事である。

夢の守護聖・オリヴィエの館で、9人の守護聖、女王補佐官、そして女王までもが一堂に会して酒盛りを開くなどという企画がどのような経緯を辿って実現されたのかゼフェルは知らない。
ただ、我が道を行っているようでいて、実は気配り屋の夢の守護聖が
「んふふ〜、ちょっとね。クラヴィスの奴と約束しちゃったもんだからさ。今度、皆で、梨の花と月明りを肴に飲もうって」
と言っていたのは聞いていた。
よくもまあ、ジュリアスの奴が許可したよな。と思いながらも、内心少年はここにきてようやく自分達9人が本当の「仲間」になれたのではないか、とそんなことを考えるでなく、感じている。
あの日、星見の間でジュリアスと交わした会話。
アイツはそれを覚えているだろうか?そして少しはクラヴィスの奴と話しただろうか?
いずれにせよ、この聖地の空気は、とても静かに、良い方へと向かっている。

「仲間」などと、ランディではあるまいに、こっぱずかしくて口にも出したくはないが、何処か穏やかでやさしい、懐かしくもあるその感覚に少年は
「『金の蘭』てことか」
と、照れながらもかつてあるひとに聞いた「朋友」を意味する言葉を小さく呟いた。

アンジェリークの全快祝いの予定であったこの日の花見は、直前になって届いたもう一つの嬉しい知らせのお祝いとも重なることになった。
緑の守護聖・マルセルの元に届いた一通の手紙と、一箱の木箱。
木箱には、知る人ぞ知る極上のワイン1ダース。
手紙には―――それはもちろん、前任の緑の守護聖カティスから届けられたものである―――縁あって、ある女性と結婚したこと、そして、"華"という名前の、主星から見れば辺境にあたる惑星で暮らしていること、そこで「燕子庵」という小さな宿屋を酒を造りつつ営んでいるということ、そんなことが綴られており、最後はこう締めくくられていた。

『仲良くしてるか?おまえ達。休暇にでも遊びに来い。ワインを幾らでも飲ませてやるぞ。
そして、不思議な経緯(いきさつ)と、惚気(のろけ)を山程聞かせてやるから』

◆◇◆◇◆

オリヴィエの館についたはいいが、予定の時間にはまだ早いようであった。
「手伝わされるのも、メンドーだしなあ」
ゼフェルはそう呟くと、館の裏側にある庭に、一足早く入り込む。
梨の老木が、オリヴィエの言う通りみごとに花をつけ、今は盛りを過ぎかけていた。
刻一刻と夜の蒼を濃くする世界に反して白い姿を淡く浮かび上がらせながら散りゆく姿は一層幻想的に見える。
じつは、この場所に、以前ゼフェルもよく訪れていた。
何故かと言えば、クラヴィスの館の庭の次に昼寝の場所としては最適なのである。
が。
以前眠っている内にオリヴィエに化粧されて以来ゼフェルはここでの昼寝を避けていた。
お気に入りの場所だっただけに、少々惜しい気もするが、背に腹はかえられない。
だから、この梨木のもとを訪ねるのは、久し振りのことであった。
「よう、久素振りだな」
とおもわず、木に挨拶している自分に気付き、少年は考える。
長年生きる内、木と言えども魂が宿るのだろうか?
いや、なまじっか、人間なんかより、植物の方がよっぽど温かい魂を持っているのかもしれない。
それに、自分は信じているではないか。
心込めて作ったものが、たとえ「モノ」であっても、なんらかの想いを宿しているに違いない、と。
人から言われれば「けっ、くだらねー」と一言ですましてしまう少年の、それが心の内側であった。

少年は、そっと梨の老木の根元に腰掛けると天を仰ぎその雪のように白い花をみやった。
静かに舞い、散りゆく花びら。
懐かしさと、言い様の無い、切ない想いが心の奥より込み上げてくる。
昔、この梨の木に良く似た木のある庭を知っていた。
あの少女は元気だろうか?
その家に住んでいた11、2才の幼い少女を思い出す。
きっと今ごろは、大人になって、結婚して、子供のひとりでもいるかもしれない。
兄弟のいない自分にとって、彼女は妹のように感じられる存在だった。
「直してやったあの簪、まだ持ってっかな」
少年はそう、呟く。

梨花は、潸潸と散っていた。
雪のように
ただ、ただ、
潸潸と潸潸と
そう
あの日と同じように。


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