梨花の散る夜に

(壱)――少年易老学難成


それはまだ、俺が守護聖になりたてで、聖地にも、女王にも、守護聖にも、兎にも角にも自分をこんなところに押し込めるすべての存在に反感を抱いていたそんな頃だった。
何かとめんどーみてくれる、ルヴァの存在を、ちったあ、 ありがてーなって。
そう思ってはいたけれど、それを素直に口にできるほど、俺はオトナじゃなかった。
―― 今でも変わってねえのはわかってるって。
兎に角、その頃の出来事なんだ。
あの、梨の花の散る夜は。

「あ〜、待って下さいよ。ゼフェル。」
「っせえな。おっさんの講義なんて、かったるくて聴いてられっかよ」
その日、俺はいつものようにルヴァの講義を途中でほっぱらかして昼寝でもしようと外へ出た。
ルヴァはこれまたいつものように凝りもせず、俺を捕まえようとあとから追ってくる。
守護聖としての仕事をこなすための最低限の知識なら、すでにあの小うるせえ石頭とかからも無理矢理叩き込まれているわけで、元々勉強好きでもない俺が、「ラリホー」の呪文に限りなく近いルヴァの講義をどうして大人しく聞いてなくっちゃいけねんだ、というのが俺の言い分だが、奴にはそれが解かってないらしい。
「そんなこと、言ってはいけませんよ、『少年老い易く学成り難し』と言ってですね ―― おっとっと」
―― あいかわらず、とろくせえ。あんなんで捕まえようって気、ほんとにあるんだろーか。
段差にけっつまずいてるルヴァが気にならないでもなかったが、またとっ捕まってもメンドーなので俺はそのまま中庭を抜けて、 執務室のある宮殿を後にした。
「さてと。何処で昼寝すっかな……」
俺はそう呟く。現在、お気に入りの場所は二個所。

1.でかくて、黒くて、暗くて、ずるずるした奴の庭先の楡の木の下。
ここは誰もこなくて、静かで、いい場所だ。庭の持ち主にみっかっても、あいつは人のことどうこう言わねえしな。
ただ、宮殿から遠いんだよ。


2.派手で、けばけばしくて、化粧臭いヤローの館の裏にある古い庭の梨の木の下。
ここも、何故かわなんねーけどゆっくり眠れるポイントだ。聖殿からも近い。難を言えば館の主に万が一見つかりでもすると寝てる間に化粧されるというペナルティがあるということ。

そういえば、今日オリヴィエの奴は惑星の視察かなんかで、聖地にいないはずだった。
それを思い出した俺は、迷わず夢の守護聖・オリヴィエの館の裏手の方へと足を向ける。
後ろから、ルヴァのおっさんが追いかけてくる様子はなかった。諦めたのだろう。

悪ぃな、とは、思ってるんだ。
時折俺のせいでジュリアスに小言を言われていることを実は知っている。
あいつは大抵そんな時

―― 時がたてば、変わるものですよ。

そう、おっとりと言ってその小言をかわしてた。そして、俺の講義ではそんなジュリアスの小言なんておくびにもだしゃしねえ。
時がたてば変わるのだろうか?
俺は思う。この時の止まったような聖地の中で?

さっきルヴァは「少年老い易く」そう言っていた。言いたいことはわかるでも。
この場所でその理屈は通用しない。

今日も聖地の空は怖いくらいに澄んでいる。この空を、「美しくない」という人などいないだろう、という自信に満ちたような空の色だ。
はじめてこの地を訪れた時、その美しさに驚かされたのは本当だ。
惜しみない太陽の光を一身に受けてきらめきそよぐ緑の梢、涼やかな安らぎに満ちた木陰。
常春の風に、炎のような花びらをゆらして甘い薫りを放つ花。
湖に流れいる水は冷たく澄んで大地を潤す ―― 夢のように美しいという言葉は、きっとこう言う時に使うんだろう。
そう思った。
この世界を司るサクリアが調和し、彩っている。
―― そして、こういう時、鋼の力は本当に必要なのかと思わずにはいられない。
けれど、何故、ここまで完璧な、いや完璧だからこそ、哀しみを感じさせずにいられない光景。
俺の故郷の、人情と油臭さにまみれたあの風景の方が、白っぽくぼやけた淡い水色の空の方が、温かく、美しく感じるのはただの感傷なんだろうか ――
ただどうしても、この聖地の風景が俺には「生きている」ようには思えなかった。
そして、ここで生きている自分達の命でさえ、どこか虚構じみたばかばかしさを覚えずに居られない。
ルヴァの言う通り、時がたってこの虚無感が消えると言うのなら、俺はさっさとじじいになったって全然かまわねえ。
そんなことさえ思っていた。

目的地に着いた時、俺は意外な先客に驚く。
真っ直ぐな癖の無い金の髪を今日は結ばずに風になびかせたまま、彼は白い花をいっぱいにつけた梨の花の下で独り手酌で酒を飲んでいた。
彼が使っている盃とは別にひとつ、他の盃に酒がなみなみとつがれて彼の前に置いてある。
まるで、目に見えぬ誰かと向かい合って飲んでいるかのように。
散った梨花の花びらが一枚、その盃に浮いていた。
「…… 昼真っから、なにしてんだよ。おめえ」
俺だって講義を途中でほっぱらかして来たんだから、人のことどうこういえやしねえのは判ってたけど、さすがに酒を飲んでいるカティスに呆れずにはいられなかった。
一瞬俺の姿に意外そうな顔をした後、すぐに彼はいつもの気さくな笑みを浮かべて、お、ゼフェルか。そう言った。
「よう」
おれも短く挨拶すると、奴の隣になんとなく腰掛ける。このおっさんは苦手じゃねえ。余計なことは何にもいわねーから、気が楽なんだ。
「おまえも一杯やるか?」
なんつうか。
何考えてんだ。そう思ったが、その申し出を有り難くうけて、俺も一杯引っかけることにきめた。
今回だけだぞ。そう言って笑うカティスは俺に盃を持たすと酒を注ぐ。
てっきり噂のワインかと思いきや、それは見慣れぬ壷に入った琥珀色の酒だった。
思いっきりぐいっと空ける、が、苦い。しかも強い。
思わずむせた俺に、カティスは笑って
「おまえにはまだ、強かったかな」
と、背中を叩いてくれた。
「…… んなこたねえよ」
少し悔しくなって強がりを言ってみる。強がりであることなどお見通し、とばかり奴はもう一方の瓶 ―― ワインを別に用意してあったグラスについでくれた。
「なんて言う酒だ?それ」
尋ねた俺に、
「なんていったかな。よく覚えていないんだが …… なんとかチュウだか、そんな感じの名だ」
梨花をみながらカティスは静かに応じた。どことなく、心ここに在らず、といった風情だ。
チュウ?ねずみみたいでやんの。酒が早くも回ってきた頭で、俺はぼんやりとそんなことを思った。
「古い友人の、故郷の酒さ。少し強いが、いい酒だ」
眠気が襲って来て、ごろりと横になった俺に言ったのか、独り言だったのか、カティスはそう呟いた。
午後になって吹き始めた風が、ちらちらと梨花を散らしはじめる。

「花は、毎年変わらず咲くんだな」

カティスが言う。
この時の俺に、奴の言う言葉の奥の意味を知る(よし)もなかった。
「俺にもう少し歌心でも在れば、この辺で詩のひとつでも披露するところなんだがな」
欠伸をかみ殺しながら、俺は悪態を吐いた。
「おっさんが詩なんてよんでもだれもきかねーよ。トリハダがたたあ」
ずいぶんな言われようだな。そう笑ったっきり、カティスは手酌で一杯、また一杯、とやりはじめる。
穏やかな風に、俺はうつらうつらと眠りに落ちる。
―― この梨花もみおさめだな
遠くで、そんな声が聞こえたような気がした。


両人對酌山花開 ―― 両人 対酌すれば 山花開く
一杯一杯復一杯 ―― 一杯 一杯また一杯
(李白「山中にて幽人と対酌す」部分)  

朋と向かって酒を飲めば 山の華も咲き誇る
春を肴に いっこん、いっこん、またいっこん


奴のサクリアが衰えはじめ、交代の時期が近づいてきていたことを俺が知るのは、もう少し後の話だった。

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