海鳴りの子守歌

(四)―――潮満〜しおみつる〜

 


砂山の砂に
砂に  腹ばい
初恋の
痛みを遠く
想いいずる日
―― 初恋の痛みを
遠く 遠く 思いいずる日


夢の中で聞こえていたと思っていた声が、不意に現実感を伴って彼の耳に心地よく響く。
耳元で、囁くように、包み込むように、やさしく、心に染みる愛しい声。
確認するまでもなく、彼はその愛しい少女の名を呼んでいた。
「アンジェリーク、そなたが、側についていてくれたのか……?」
うだるような熱の気配に、まだ少し声がかすれ、囁くような声で言う。
ジュリアスの傍らに身を寄せて、包み込むようにいたアンジェリークは
不意に開かれた澄んだ蒼穹の瞳に あ、と、一瞬照れたようにはにかむと、少し身を離し、嬉しそうに微笑みを返す。
が、すぐに不安そうな顔をして、密やかな声で言った。
「すみません。お邪魔じゃ在りませんでしたか?
日の曜日だったので、お誘いにきたんです。そうしたら、お加減が悪いって聞いて。
あの、すみませんでした。昨日、海で濡れてしまったせいですよね?」
もうしわけなさそうな顔をしているアンジェリークに、彼は微かに笑んだ。
「苦にすることはない。家の者など、私を休ませるいい機会だと喜んでいることだろう」
珍しく冗談半分にそう言って、安心させる。
「歌を」
「え?なんですか?ジュリアス様」
顔を覗き込むようにアンジェリークが問い返す。
ふわりと、彼女の髪から太陽の香りが香った気がした。
視界の隅に、花瓶に生けた昨日摘んだ白い花が入る。
「歌を歌っていたのは、そなたか?」
遠慮がちに
「はい。熱に、うなされておいでで。
すみません。かえって、うるさくしてしまったでしょうか」
と応じるアンジェリーク。
「いや、そのようなことはない。そなたのおかげで心地よく、眠れた気がする。礼を言う」
よかった。と嬉しそうに微笑む少女に、再び尋ねた。
「あの歌は、なんという歌なのだ?聞きなれぬ、星の言葉だ」
「えっと、昔、おばあちゃんに聞いたんです。四季の綺麗な遠い星の歌で。
題はわからないですけど、たしか、砂浜で …… 遠い昔を思い出す、そんな内容の歌詞です」
エリューシオンの海を見ていると、何故かその歌を思い出すのだ、と少女は言った。
「それは、子守り歌なのか?」
「いえ、たぶん、恋の」
そこまで言って、アンジェリークは微かに頬をそめた。
「恋の歌です」

ジュリアスはその蒼穹の瞳でアンジェリークをみつめてから、瞼を閉じて呟いた。
「そうか。遠い昔、その歌を、今のそなたのように歌ってくれた(ひと)がいたように思う。あれは母だったのだろうな。子守り歌のように、その歌を。
近くに海があった。潮騒が、聞こえていた」

(ざざ)……(ざざ)……(ざざ)……

それは、潮騒。
そして聞こえる旋律(リズム)は、(いだ)かれた母の鼓動。
歌声は、ただ、やさしく、慈愛に満ちて。

何故今己はこのようなことを思い出しているのだろうかと、彼は不思議に思う。
それは、あまりに遠い記憶だった。
彼の記憶というものは、既に聖地でのものしかないといっていいほどだ。
家族と共に過ごしたのであろう僅かな日々は幻の如く淡く、光の奥に滲んで。
例えば輝く太陽の(もと)に咲く白い花を見つめようとしても、あまりの(まばゆ)さにみつめることも叶わず、ただ、(おぼろ)な印象のみ残るようなものだけだというのに。
しかも、そう、幼くとも光の守護聖として恥ずかしくないよう、ただ、誇りにみちてあれと、厳しかったはずの両親。
なのに何故。

―― いま思う彼等は、こうもはっきりと、記憶の中でやさしく、微笑んでいるのか。

けれども、彼は信じてみようと思った。これは幻ではなく、かつて己を愛してくれたひと達の、真の記憶なのだと。

―― アンジェリーク。
―― これは、この想いは、そなたが想い出させてくれたのだな。
―― あたたかい温もり、やさしい歌声、そして、ひとを慕う心 ……

「私は、恋の歌を子守り歌に眠っていたのだな。今も、昔も」
ふ、と笑みを零し、ジュリアスは寝台からアンジェリークをみつめる。
「もしかしたら、ご両親の、想い出の歌だったのかもしれませんね」
(まばゆ)い太陽の髪の天使が、そんなことをって微笑んだ。
「そうか。そうなのかもしれぬな。恋の歌、か」

微かな風がカーテンを揺らす。
窓の外に、飛空都市の、朝とうってかわって晴れた夜の空には月が満ちで昇っていた。
ジュリアスの脳裏に静かな、穏やかな海に月が映り揺らめいている情景が浮んだ。

今ごろあの海に月影は(さや)かに映え、潮は豊かに満ちているのだろう。
海鳴りは静かに辺りに響いているのだろう。
風は月に白き砂浜に咲く紅を帯びた一重の薔薇(はまなす)をやさしくゆらしているのだろう。


瞳を閉たまま、黙っているジュリアスに
「まだ、お加減が悪いようですね。私、タオルを冷やしてきます」
そう言って、その場を去ろうとする少女の手をジュリアスは不意に握り締める。
「アンジェリーク」
確かに、熱はまだ下がっていないのだろう。
体が気だるく、鬱々としていた。
だが。
寝台のうえから、囁くようにジュリアスは少女の名を呼ぶと、その頬に、すこし熱で火照ったままの掌を添える。
少女は驚き、そして、密かに慕うひとが自分の名を呼ぶ声のあまりの甘やかさと、やさしさに紅に頬を染めながら愛らしく首をかしげで応える。
「はい、なんでしょう?ジュリアス様」

「此処に、いてほしい。ずっと、そう、私の側に――。
アンジェリーク …… 愛しい天使よ」

己の手に。
戸惑いつつも、そっと添えられた白く小さな手の心地よい体温を感じつつ、その返答を言葉で聞く前に訪れた、睡魔に飲み込まれるよう、 ジュリアスはふたたび心地よい、安らかな夢の狭間をゆらゆらとと揺らめいていった。


騒……騒……騒……
これは木々を渡る風の音か。
海鳴りか。
ああ、子守り歌が聞こえる。
やさしい、愛しい声。
海鳴りの子守り歌が ――

砂山の砂に
砂に  腹ばい
初恋の 
痛みを遠く
想いいずる日
―― 初恋の痛みを
遠く 遠く 思いいずる日
(「初恋」作詞:石川啄木 作曲:越谷達之助)


――fin.

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