月さえも眠る夜・番外編

〜言葉でなく〜



気持ちの良い夜だった。
遠い花の香りをはこんでくる風はしずかに頬をなぜ、ひとり佇むひとの金の髪を揺らした。
星々は黄金に、青銀に、群れ、散らばり、煌き、言葉に出来にほどの壮絶さで天を飾りつけている。
そしてそこに月は……
月は、静かな眠りにつく。

「今宵は……新月だな……」
突然背後からかけられた声に振り向かず、ええ。と彼女は応えた。
アンジェリークが虚無の空間から奇跡のような生還を果たしてから数週間が過ぎていた。
疲労が激しく、体調が元に戻るまで、とずっと床についていたがここに来て体力も回復し、こうやって私邸の庭を散歩するのももう平気だ。
明後日の月の曜日からは元の執務に戻る予定でいる。
そして、そうなるまでずっと傍らに付き添い、アンジェリークを支えていてくれたのがクラヴィスであった。
放っておくと、冗談でなくずっと傍らにつきそっていてくれる彼に、嬉しく思いながらも、
「お仕事はきちんとなさってくださいね」
と、アンジェリークは苦笑混じりに言ったものである。
内心、……半分はサボりの口実にされてるのでは……
と、ちょびっとだけ思いながら。

「このような夜を……『星月(ほしづく)』とも、『満天星(どうだん)』とも言う……」
月明かりがないために、普段よりも輝きを増す星空の呼び名。
それを口にしながらクラヴィスはふわりと、背後からアンジェリークを抱き締めた。
アンジェリークもその胸に、身を任せる。
「……何を……想っていた?」
クラヴィスが静かに囁いた。

月のない夜。
それは、ここに寄り添いあうふたりにとって、何かを想わせずにはいない夜。
かつての恋の大切な想い出も、それを失った日の哀しみも。 すべては、この月のない夜に飛来する。
そして……
はじめてふたりが、肌をあわせたあの日の記憶も。

「たぶんあなたと、おなじことを……想っていました」
アンジェリークはそう応えた。
クラヴィスは、ふ、と笑みを零す。
「……よい、答えだ……」

時間は、痛みを癒すのだ、と彼女は想っていた。
この星月の夜に、かつて胸を締めつけた哀しみはもう、ない。
幽かな切なさを残し、すべてが『想い出』となっていることに、彼女は気付いている。
今は、逆に、それが哀しい。
……やさしく自分をいだくこのひとを想う気持ちに、もうけして、偽りはない。
虚無の中からその想いだけを頼りに戻り、目覚め、このひとの瞳をみた時、確信した。
けれど。
過ぎ去った季節の中、セリオーンを愛した日々も決して、幻でははのだ。
あのときの、ひと恋うる心は、今もはっきりと覚えているというのに。

「生きていくということは、過去を想い出に変えて……いつかは忘れるということなんでしょうか……」
哀しげな声が夜に響く。
クラヴィスのアンジェリークをいだく腕に、すこし力が入ったような気がした。
彼も、やはり同じことを考えていたに違いない。
「……忘れる必要など……ないのだろう。おそらくは」
囁きながら、自分の指をアンジェリークの指にからめる。
「……想い出に変えて……いだいてゆけばいい。共に……」
それでも、おまえを愛しく想う心に偽りはないのだから。
「ええ…」
まわされている腕に頬をよせて、アンジェリークは小さく、そして嬉しそうに、頷く。
―――想い出にかえて、いだいてゆけばいい―――
その言葉が、熱く、心に沁みた。

「……おまえの手が冷たい。戻るとしよう……アンジェリーク」
そう言って促すクラヴィスにアンジェリークは囁く。
「クラヴィス様、今日は……帰らないで」
付き添っていた、とはいえ夜は自らの館へ戻っていたクラヴィスであった。
彼は僅かに目を見開く。
夜の風がふたたび遠くの花の香をはこんで、ふたりの傍らを通りすぎた。
その風にかき消されそうな彼女の幽かな囁きは、花の香のように甘く、切なく、けれどたしかに聞こえた。

「……そして、私を抱いて……」

と。

 

アンジェリークを抱き上げ、クラヴィスは寝室へ入る。
明かりはつけずにそのまま、寝台の傍らへと進んだ。
アンジェリークを降ろし、そこでふたりは立ったまま言葉もなく熱いくちづけを交わす。
幾度も、幾度も、飽くこともなく絡まりあう舌。
その間に互いの衣服をまさぐる指。
クラヴィスはアンジェリークの、薄い夜着のうえに羽織っていたガウンの内側へと手を滑り込ませた。
と、そのとき、アンジェリークの動きが止まる。
「……?」
決心が鈍ったのかもしれない。
一度は肌をあわせたとはいえ、あの時とはまた違うのだ。
急く事は、すまい。
と、そう思い、クラヴィスはアンジェリークの顔を見る。
その時入ってきた彼女の表情は、実に意外な顔だった。
困ったような、拗ねたような、それでいて悪戯っぽい。そんな表情でクラヴィスをあげている。
そして、彼女は言う。
「……この服……脱がせにくい」

「……おまえたちが、選んだ服だ……」

意表を突いた彼女の発言に、つい、間抜けな返答をするクラヴィス。
彼の服は、アンジェリークが床に就き、暇を持て余していた時に、見舞いに来たロザリアとふたりで選んだものである。
ほっとくといつまででも同じ正装を着ていそうな年長組み三人に、女王と女王補佐官から、という形で贈られた。
服を選ぶ時、ふたりは実に楽しそうにきゃいきゃいとはしゃいでいたものだ。
クラヴィスの言葉にアンジェリークは真顔になり、冗談なのか、真面目なのか、良くわからないが言う。
「……失敗したわ。脱がせ易さまで、考えていなかったもの。いったい、どこがどうなっているの?この服」
彼女の発言に、つい、クラヴィスはくつくつと、声をたてて笑ってしまう。
「……ならば、おしえてやろう……」
アンジェリークの手を取り、ひとつ、ひとつ、服の作りを教えるように自分の体をなぞらせる。
耳もとで、時に唇は耳朶を食み、時に、
……ここは、こう……ここは、こうだ……
と、囁きながら。
もう片方の手は、器用にアンジェリークのガウンと夜着をはぎとってゆく。

ふたりの肌が露わになった時、ふたたび舌を絡めあい、そのまま寝台へと倒れ込んだ。
白い手が、長い指が丁寧に、円を描くように体をなぞる。
それに続き、唇は首筋に、肩に、胸元に、いくつもの花を咲かせながら、ゆっくりと愛撫していく。
くすぐったいほどに、念入りで、やさしい愛撫。
クラヴィスの体温を全身に感じながらアンジェリークは静かなため息を漏らす。
あの時の、互いを壊わすかのように求め合った夜と、同じひととは思えない、とそんなことをぼんやり思った。
それでも、どことなく緊張の残るアンジェリーク。
先ほどの服の話も、実は照れ隠しが入っていたのかもしれない。
そんな時、クラヴィスが囁く。
「あの夜、おまえが……はじめてだと気付いてやれれば、ああも乱暴に、扱わなかったのだが……」

とくん。
アンジェリークの心臓が音をたてた。

「……今宵は、案ずるな……」

アンジェリークの全身を戦慄にも似た震えが走る。
でもそれはけして、不快なものではない。
触れあう肌が、いっそう熱く感じた。
やさしく体を這う舌から、まるで電流のような感覚を覚える。
白く闇に浮かび上がるからだに、しっとりと絡まる黒髪さえも、敏感な彼女の肌をさらに熱く、感じやすくする。
髪をなぜていたクラヴィスの手をひきよせて、その指に彼女はくちづけした。
それに応えるよう、クラヴィスの歯がそっとアンジェリークの白い乳房の先端を食み、そして指は下肢を割って彼女の中へと滑り込む。
「ぁ……」
手をクラヴィスの首に回し、すこし反り気味になるアンジェリークの背に支えるよう彼も手を回す。
零れ出る甘い声を更にひきだすように、また、すこしでも受け入れることの苦痛をへらすように、 指は滑らかに何度も、何度も、彼女の体内をなぞる。

しだいに呼吸が激しくなり、アンジェリークの背に回された手が少し下に動いた。
そして、さらに熱い彼自身を、彼女はゆっくりと自分の体内に感じた。

ふたりの鼓動は同じリズムを刻み
意識はかつて遠い昔
母の体内で自分自身の生命のみをいだいて
安らぎに満ちた闇の海をゆらめいていた頃を思い出したかのように
ゆらり、ゆらり、ただ穏やかに、ゆれている。

あなたの
おまえの

体温、鼓動、吐息、想い、魂、命。
いま、すべてを、はじめて感じた。
この宇宙に生まれた、本当の理由。
この体で、この魂で、この命で。
今、私達は確かに生きていて、そして、愛しい人の全存在をこの腕に、体に感じている。
どこまでも広い、透明な闇にも似た宇宙の中の、ちっぽけな自分の、かけがえのない存在として……
 

夜明けはまだ遠い。
寝台の中でよりそいあい、アンジェリークは隣に感じる温もりをこれ以上なく幸せに感じる。
「髪、切ってしまったんですよね……」
それでも十分に長い濡場玉の髪をいじりながらアンジェリークが言う。
足元までとどく髪の感じも、けっこう好きだったんだけどな。
と、口に出さずに考える。
「切らずにいた理由が……なくなったのでな……」
何気なく言う言葉の、奥の真意。
それは、遠い、遠い誓いだった。
にどと誰も、愛すまい。
と。
その意味をとうに知っていたアンジェリークは微笑み言う。
「それじゃあ、私なんて、坊主にしなくっちゃ」
肩までしかない、金色の輝く髪。
そのひとをクラヴィスは愛しそうに胸の中に抱きしめる。
「……長いのが、好きであったのなら……これからいくらでも伸びよう……」
おまえと共に生きる、これからの時間の中で。
くすくす笑っていた彼女の声がやみ、森の緑の瞳が、紫水晶の瞳をみつめる。
その瞳が言った。

愛していると言って。
―――言葉でなく
愛していると言うから。
―――言葉でなく

そして、唇が、静かに、重なった。
風にはこばれた花弁がふれるような、幽かなくちづけ。
それがふたりの答え。

過ぎ去った季節のすべてを、少し切ない想い出にかえて、 ともにいだいて、歩いてゆくふたりの答え。


外は星月。
――月さえも眠る、やさしい夜である


〜fin.

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