名残の梨花が青空に舞っていた。
庭に出てその館の主は静かにひとり想う。

―― 何故に春は斯くも疾く過ぎゆくか。
第255代目女王の即位の儀の終わった後である。
先の女王はすでに別れの挨拶を終え、ひとりこの聖地を去っていた。
「いずこに居ろうと、わらわは、わらわぞ。ほほほっ」という、明るい笑いと共に。
「イファン殿、去りゆく春を肴にこいつでもどうだ?」
私邸にもどったメイファンをまだ明るいうちから尋ねたのは緑の守護聖、カティスであった。
手にはワインを持っている。
飲み友達の出現に、メイファンはいつもと同じ笑みを浮かべる。
「昼間酒もまた、一興よの。だが、今日は、こちらを付きおうてくれぬか」
そう言って、奥から酒の入った茶色の壷を持ってくる。
彼の故郷の酒のようだ。
「もちろんさ、少し強いが、いい酒だ」
ふたりは、庭の四阿で空の蒼さと、若柳の青さ、そして散る梨花を肴に酒をちびり、ちびり、とやりはじめる。
カティスは何も言わなかったが、彼が酒に誘った理由をこの夢の守護聖は気付いていた。
―― 良き友は、持つものよ
ふいに、今、闇の守護聖はどうしているだろう、と思ったが
―― 今日はひとりがよかろうな。
そう考え直し、杯を一気に乾した。
「梨の花というのは、綺麗なもんだな」
カティスが言う。
「ああ。美しいぞ。この世の、何よりも、美しい」
メイファンのその返答に、カティスは少し、怪訝な顔をした。
それに気付いて、メイファンは、少し照れたように笑う。
「『リーホア(梨花)』と呼ぶのだ。故郷の言葉で」
その意を解して、カティスも笑う。心の中、この人は、大丈夫だ。
そう思いながら。
この日、聖地を去った黒髪の、美しいひとの名。
それは。
――
梨華
いくら、いつかは訪れるとわかっていたとは言え、おそらくあれが今生の別れである。
心が痛まないはずもないのに、どうしてこの人はこうも穏やかでいられるのだろう。
カティスがそう考えたとき、
一瞬、風に舞い散る花弁の向こうに見えた夢の守護聖がとても哀しげに感じられた。
ふいに、彼が詩を口ずさむ。
故郷の言葉で詠われるそれは、カティスにはさっぱり意味がわからない。
だが、彼の心の内を垣間見た気がした。
辛くないはずなど、ないのだ。
けれど、その辛さを乗り越えるだけの絆がきっとふたりにはあったのだろう。
聖地で同じ時を過ごした、長い長い時間で培ってきた、「絆」が。
クラヴィスも、いつかは彼のように思える時が来るのだろうか?
遥か遠い、時間のその先に。
空になった互いの杯に酒を注ぎながらカティスは、そんなことを考え、ぼんやりと春に霞む空を見上げた。
これは、いつもと変わらない、穏やかな聖地の1日の、1頁の出来事である。
晴煙漠漠柳参参―――晴煙は漠漠として柳参参たり

不那別情酒半酣―――那んともせず離情酒半ば酣なるを
更把玉鞭雲外指―――更に玉鞭を把って雲外を指せば
断腸春色江南在―――断腸の春色江南に在り
(韋荘・古別離)
晴れ渡る空は淡く霞み やわらかな柳は細く枝垂れてゆれている
如何ともし難い別れの想いは 酌み交わす酒の酔いを半ばで留める
さらに玉鞭をあげて 彼方の空を指差せば
身を切るような痛みを私に与えて 春は今 ここにある
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(本編との関係としては
「闇をみつめる天使」の14話と同じ日ということになります。)