梨花の散る夜に

(六)―――梨花の散る夜


「どこへ行くのだ?」
夜、聖地を抜け出そうと研究所に忍び込んだ俺の後ろからかけられた声があった。
その静かでありながらとんでもなく威圧感のあるこの声。
(だれだよっ?!腰の骨に響く声とかってほざいてるそこの奴はよー(怒))
(作者註:それは私。(爆))
こんな声の奴、この聖地で俺の知っている限りひとりしかいない。
「…… うるせえな」
俺はジュリアスの方を見据えてそう呟いた。
薄暗い部屋の中でも、奴の姿はばかばかしいくらい浮かび上がって見える。そこに光がさしたみてーに。
燕子庵で過ごした数週間は皮肉なことに聖地での一日を追い越していて俺が戻ったのは火の曜日の朝だった。
散々絞られたのは勿論だけど、ミョーに監視が厳しくて自由に身動きさえ取れなかった。
燕子庵に俺は、すぐに戻るつもりだったのに。
早く、早く燕子庵へ向かいたい。
そう思い、俺の中にはイライラだけが募っていった。
あいつらが俺を聖地から出さない理由を、理解できないわけじゃない。
確かに何時までも逃げてるばかりじゃいけない。
いつしかそう思えるようになった俺自身に気づいてる。
だけど、これだけは言いたい。
俺が燕子庵に行く理由。
それはもう、「聖地から逃げる」そんな理由じゃねえんだってことを。
兎に角、ようやっと、今日の夜になって館を抜け出したとところをジュリアスに見つかっちまうとは。
―― とことんついてねえな。
俺は舌打ちした。
「それは質問の答えになっておらぬ。何処へ行くのだ?」
重ねてジュリアスは俺に問う。
その蒼い目は何処までも静かだ。
俺は手に持った簪を知らず知らず強く握り締めた。
「ど、何処だっていいだろっ、どけよ!」
いつのまにか俺の前に立ちふさがるようにいた奴の横をすり抜ける。
その時、ジュリアスの腕が俺の腕をつかんだ。
突然のことに身構える。当然アタマの上から雷が一発落ちてくるだろう、そう思ったからだ。
でも。
「―― 手に持っているものを、見せなさい」
奴は静かにそう言った。
俺は、わけも解からず、でも反抗する気も失せて梨華の銀簪を奴に見せる。
あいつはそれを黙って見つめた後、つかんでいた俺の腕を解いた。
「―― 明日の職務に差し障りの無い時間に戻ってくるように」
呆気に取られている俺を後に、あいつは光の名残を残して薄闇の中に紛れて行く。
その後、我に帰って慌てて回廊を渡り惑星へ向かった俺は知るわけも無かった。
奴が俺の手をああもあっさりと放した、その理由を。

俺にとって4日ぶりの惑星は、すべての生命達が喜び歌うようなそんな光に満ちた春の季節だった。



「これでよいのだな?」
研究院の外に出て、ジュリアスが静かに呟いた。
「あの少年も少しは素直に理由を話せばよいというものを」
先程、ゼフェルは気付きもしなかったが、闇の奥からくつくつという笑い声が聞こえる。
「……おまえに、人のことが言えるのか……?」
「なにっ!それはどういう意味だっ!クラヴィス!」
「……言わねば解からぬか。ふ……」
ジュリアスは額に青筋5秒前、といった風情でクラヴィスをみやったが、今のこの時に相応しくないと思ったのか彼は喧嘩の続きはせずに煌く聖地の夜空を見上げた。
黙ったままの光の守護聖に闇の守護聖が言う。
「後悔、しているのか?あの少年を行かせた事を」
辛い想いをさせるかもしれないことを解かっていながら行かせたことを。
「私が、後悔をするような行動をとると思うか?」
「……そうであったな……」
溜息のような笑いを零してクラヴィスが呟いた。

この腐れ縁のような同僚は(「友人」とは間違っても言わない)もしかしたら自分と同じ気持ちなのかもしれない。
ふたりは同時にそう思った。

―― 本当は、自分も行きたかったのかもしれない。かつて、少年の時を共に過ごした、兄のような人の所へ。

そして、クラヴィスもまた降るような星月夜を見上げる。
2人の胸に飛来する幾つもの想い出。
この日、空に月はなかった。
そこに流れる一筋の光。
「……星が、流れたな」
クラヴィスが言う。
ジュリアスは空を仰いだまま、黙ってその瞳を閉じた ――



梨華が微笑んでいた。聖地という名の美しい場所でふたり、恋したあの頃の姿で。
艶やかな黒髪にあの銀簪がゆれている。
美幻は我に返り、そして気付いた。自分もまた、かつての青年の姿になっていることに。
何処からともなく香る芳しい香り
満開の梨花
雪のようなその花弁の一枚一枚

「梨華……」
名を呼ぶ彼に彼女はただ、悪戯っぽく微笑み返すだけであった。
「梨の木の元で、そなたの夢をみるはこれが二度目ぞ」
伸ばされた美幻の手に、梨華のそれがそっと重ねられる。
確かな温もりを感じた、ように彼は思った。
「私はこの人生の中で、三度(みたび)そなたを失った。だが、もう離れることなどありえぬ」
握り締めた手を引き寄せ、彼女を抱き留めると、美幻は梨華に、そう囁いた。
「天が落ちようと、地が割れようと、もう、永遠に妾はそなたとひとつに……」
梨華が胸に身を預けながら、そう応じた。
ふたりのくちびるがそっと重ねられたその時。


―― 春の風が静かに通り過ぎ、満開であった梨花が音もなく散り始めた




簪を握り締め、俺は燕子庵まで走った。
早くこの簪を美幻と、棠花と……そして梨華に見せてやりてえ。
そう思っていた。
春の夕暮れはどこか優しい。
太陽が遠ざかっても、その温もりが、木に、大地に、心に沁みついて残ってるみてーだ。
少し風が出てきたな。
そう思ったとき、ふわりと白いものが目に映る。

―― 雪?
なんたって、俺にとって4日前までここは雪に覆われていたんだ。俺は咄嗟にそう思い、でもすぐにそれが梨花であることに気付いた。
そうか、梨が咲いてるのか。
美幻のことだ、梨の下で一杯、とかいって酒を飲んでるかもしれない。
燕子庵に到着して、俺は真っ直ぐ梨の木の在る庭へと入り込む。
そしてその木の下に座っている美幻の姿を見つけた。
やっぱりな。
そう呟いて、俺は歩み寄った。

「じーさん、一杯やるなら俺もつきあうぜ。……待たせちまったな。でも、この通りだ」

俺は簪を美幻に見せる。
だけど、美幻はその問いかけに反応しなかった。
「なんだ、寝ちまってるのか。しかたねーなあ、じいさん、ほら、風邪ひくぜ ――」

美しい夢を

見ているのだろうと思った。
起こすのがちょっと可哀相になるくらいに。
美幻は、そんな顔をしていた。
きっと、楽しくて、美しい夢なのだろう。
俺は、その時、そう思ったんだ……

でも、美幻はなかなか目を開けてくれなった。
――――――?
まさか。
一瞬過ぎった予感
まさか。

「なあ……?美幻……?ウソだろ?おい!」
かすれる声で俺は叫ぶ。

目を
開けてくれよ。
じーさん。
俺、あんたと話したいことがまだ、沢山あるんだ。
たくさん
たくさん
あるんだ。

涙がとめどなく流れてくる。
視界がぼやけてなんにも見えない。
震える手に握った銀簪が紗羅と鳴った。

「返事しやがれ!くそじじい ――!」

梨花は、潸潸と散ってた。
雪のようにその白い花びらがあたりを埋め尽くす。
眠るが如く老木の根元に寄りかかっている美幻は、笑みさえ浮べて。
梨花は風に散り天を舞う
半ば天に昇り 半ば地を覆い
その景は唯 寂寂寞寞 幽幻夢幻

あとから、あとから
その躯を守るように、抱くように、そして ―― 愛しむように
花弁が舞い散り、美幻を覆ってゆく。
昼間の名残の夕暮れはゆっくりとでも確実に、闇が大気に混じり夜へと推移する。
山々が濃い群青に空は深い藍に、天と地との境をそれでもくっきりと示しながら、安らぎに満ちたどこまでも透通った闇が、梨花の花弁に抱かれた美幻をそっと包んでいった。
いつか新たな光に導かれるその時までの眠りへ 彼は、ようやく辿りついたんだろうか。
長い長い旅の終りに ――




年年歳歳花相似―――年年歳歳花相似たり
歳歳年年人不同―――歳歳年年人同じからず
寄言全盛紅顔子―――言を寄す 全盛の紅顔子
応憐半死白頭翁―――応さに憐れむべし半ば死にたる白頭の翁

 

廻る季節
ふたたび訪れる春に咲く花は同じでも
それを愛でる人は移りゆく
今をまさに生きる若き少年達(・・・)
死に逝くこの老人の姿を心に留めておきなさい
かつてはやはり少年だったこの老人の姿を。言葉を。
心に留めておきなさい
―― いつか大人になるその時まで



じーさん、俺、あんたのこと忘れない。
この後どれだけの季節が俺の上を通り過ぎていっても
きっと、きっと
忘れない。

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