梨花の散る夜に

(伍)―――銀簪の想い


日が暮れるまで、俺は美幻と一緒に、その美しい雪景色を眺めていた。
しんしんと冷気が世界をつつみ、静寂に満ちた中ちらちらと雪が舞いはじめる。
闇は世界を覆おうと、幾度も幾度も雪を包み込んだが、あまりに白い雪は、闇の色さえも薄く、淡く浮かび上がらせ結局青白い色に辺りを染め上げるばかりだった。
その清浄さは、美幻が言ったように宇宙が彼女の死を弔っているかのようだった。
膝に温もりを感じてふとそちらに目をやると、仔猫の孔明が俺のふにふにと膝の上で欠伸をして寝に入っている。
一方、仔狗の公瑾は、蝶のように舞う雪に、庭に出て遊びたげな表情で一瞬だけ頭を上げたが、引き続き(あるじ)を守るように美幻の傍らに寄り添ったまま、その蒼い瞳を庭に向けている。

「そろそろ、奥に入ろうぜ。風邪ひくぞ、じーさん」
そうだな、という美幻を促して俺は膝の上の孔明を驚かせてやろうと勢い良く立ち上がる。
寸前に察したヤツは、ひらりと身をかわして優雅に着地して此方を向くと
「ふっ」
と可愛い気なく笑った。(ように思えた)

家の中は温かくて、冷えた体がじんわりと感覚を取り戻してくる。
ふたりで火にあたっていると、棠花が奥から布に包んだ何か持ってこちらにやって来た。
「爺さまには、内緒と、婆さまから言われていたのですが……」
と、その包みを俺の前で開いてみせた。
それは、古い銀の(かんざし)だった。
古い割に綺麗に形が整っているとはいっても、飾りの一部はもげてしまっているし、錆もかなりついている。
でも、壊れたかけらの一つ一つとってあることから、彼女がどれだけこれを大切にしていたがが伺えた。
「これを直して欲しいって、いってたのか……ばーさん」
前に訪れたとき、「直して貰いたいものがある」と快活に笑っていたばーさん。
なんだよ、もうちょい待っててくれれば、すぐに直してやったのによ……
心の奥が疼いた。
「でも、なんでじーさんに内緒なんだ?心当たりあるのか?」
美幻はそっと簪に手を伸ばし、それに触れると、懐かしそうに、本当に懐かしそうに微笑んだ。

まだ、こんなものを持っていてくれたとは。
そう言って。

そしてゆっくりと語りはじめた。
彼女と出逢ったのは遠い故郷を離れた地であったことや、この簪は出逢ったばかりの頃、まだ少女だった彼女にあげるために友人に頼んで作ってもらったものであり(俺とおなじくらい器用な友人だったと美幻は笑った)少年であった美幻は照れてなかなか渡せなかったことなどを訥々と、訥々と。
そしてある日、身分違いだったふたりに一度目の別れの時が来たこと。
手を伸ばせば触れることのできる距離にあって、遠く隔たれた運命に心が痛まなかったわけではない。
それでも、時折交わす微笑みでふたりはけして不幸ではなかっということ……
秘められた恋の証の銀簪が人前で彼女の黒髪を飾ることはありえなかった。
けれどこうして目の前にある簪の錆びは逆に、布に覆われしまわれていたわけではなく、長い時の中で幾度も幾度も手に取られ大切に慈まれてきたであろうことをはっきりと物語っていた。
二度目の別れで、永遠に別たれたと思われたふたりの道が友人達の協力もあってふたたび重なりあうことができたその頃には、梨華も、美幻も、もう少女でも少年でもなかった。
だから、すでに子供っぽすぎるその簪を彼女が使うこともなかったのだろう。
美幻はすっかり忘れていた、と小さく微笑んで呟いた。

ふいに口をつぐみ黙ったままの美幻を俺はずっと見ていた。
彼は簪を手に取り、俯いている。
表情は見えなかったけど、その肩が、幽かに震えていた。
「…… 梨華 ……」

そう呟いた彼の声はあまりにも切なくて、俺は胸が痛くて仕方が無かった。

彼女の死後、思いがけず現われた銀簪。
それが、彼らの長い長い絆を無言の内にも語っている。
若い頃の彼らがどんな立場にいたのか、どんな人生を歩んできたのか。
そんなことはどうだってよかった。
ただ、この銀簪に込められたふたりの思いだけが、雪に守られた静寂の中で深深と、深深と俺の中に染み込んで来て、俺はただ言葉も無く美幻と、棠花と、そして、梨華の想いと共にその場所に佇んでいた ――

◇◆◇◆◇

流石に長いこと冷たい空気の中で雪景色を眺めていたことが体に触ったのだろう。
その夜から美幻が床に臥したこともあって俺はそれから数週間を燕子庵で過ごした。
その間俺は銀簪を磨いたりなんだりして直そうと試みたのだがどうしたものか細かい部分は道具が無くて直し切れない。
じいさんの友人が作ったというそれは、素人の仕事とは思えないほど良くできている。
俺はどうしてもこれを ―― ふたりの想いで魂の宿ったこの簪をもと通りにしたくって、一端聖地に戻ることにした。
次の日の曜日までなんて待ってらんねえ。完成したらこっそり抜け出してすぐに戻って来よう。
俺はそう決心する。
心の奥じゃ解かってた。
いつまでもこの穏やかな時間を過ごすことなんてできないってことを。
ここに長く留まれば留まるほどいずれ来る別れの時が辛くなるってことを。
でも、そんな理屈じゃなくって、ただ俺は明らかに移りゆく燕子庵の季節の中の、それでも感じる「永遠」と言うものを大切にしたかった。

雨上がりの高くすきっとおった空
青から茜へ、そして群青へと推移する秋の夕暮れ
白い雪の静寂な輝きと、紅の椿がおとす蒼い影
うつろい舞う風花 ――

それらが流れ去っては二度と帰らぬ時をおしえてくれるからこそ逆に、空ろなばかばかしさを感じる聖地の変わらぬ風景、そこからは気付くことの出来なかった自分の中に刻まれる鼓動。
それを俺は今、実感している。


「なあ、メイファン」
俺はだいぶ体調は良くなったもののまだ床に就いたままのじーさんに言う。
当人は、ものぐさ故に、起きるのが面倒になってしもうた。
そう言って笑っている。

「―― この雪景色の詩、詠んでくんねえか」

棠花が言うには梨華の死後彼が詩を詠むことはなかったらしい。
でも、それっておかしいとおもわねえか。
だって俺には解かってる。美幻は梨華を失ったわけじゃない。
彼女自身の魂がどうのって言うわけじゃないけれど。
―― 確かにじーさんの中にばーさんは居るんだ。
今も。

美幻はいつもの穏やかな微笑みをたたえ静かに寝台の横の簾をかかげて窓をあけた。
高く昇った冬の太陽。
南中にあってそれはやさしく暖かな光を放つ。
雪はそれをうけて、まるであたたかな真綿のように木を、石を、草を包んでいる。
椿が一枝雪の中から顔を出し誰ひとり踏み荒らしたものの無い新雪の上に蒼い影を落していた。

日高睡足猶慵起 ―― 日高く 眠り足れるも 猶お起くるに(ものう)
小閣重衾不怕寒 ―― 小閣に衾を重ねて 寒きを(おそ)れず
遺愛寺鐘欹枕聴 ―― 遺愛寺の鐘は 枕を(そばだ)てて聴き
香炉峰雪撥簾看 ―― 香炉峰の雪は簾を(かかげ)げて看る

匡廬便是逃名地 ―― 匡廬はすなわち是名を逃るるの地
司馬猶為送老官 ―― 司馬は猶お老いを送るの官()
心泰身寧是帰処 ―― 心(やす)すく身(やす)らかなるは 是帰する所

故郷何独在長安 ―― 故郷 何ぞ独り長安にのみを在らんや

(白居易「香炉峰雪」)

日が高くなるまで惰眠を貪り、もう目も冴えたが床を上げるは面倒だ。
小さな我が家 ふとんを重ねてごろごろと 寒さも感じないほどここは温かい
遠くの寺から響く鐘の音に 枕を抱えて耳を傾け
山峰の雪は 手を伸ばした先の簾を揚げて垣間見る。
この地ではかつての名声も名誉も関係なく
静かに老後を生きるに相応しい。
身も心も泰らかに、ただ安寧に。ここは還るべき地
かつて愛した都とともに、この小さき庵も我が故郷 ――



朗々と詠いあげるじーさんの声。
詩の意味を聞いた俺はそのあまりにものぐさな内容に思わず声を立てて笑う。
棠花も笑い、その様子を嬉しそうに目を細めて美幻が見る。
その瞳はこの部屋のなかとおなじでとても暖かで、とても優しかった。

ふたりにしばしの別れを告げると俺は簪の包みを抱えて雪道を走った。
すぐに、すぐに直して帰ってくるから。
そう彼等に約束して。
ちらちらと雪が舞いはじめた。
走る俺の肩に、頭に、すこしずつ積もりはじめる。
何故かすこしも冷たく感じられないその雪の舞う様を俺は
―― まるで梨の花が散ってるみてーだ。
そう思いながら見ていた。

◇◆◇◆◇


北風捲地白草折 ―― 北風 地を()いて白草折れ
胡天八月即飛雪 ―― 胡天八月 即ち雪を飛ばす
忽如一夜春風来 ―― (こつ)として一夜 春風来たりて

千樹萬樹梨花開 ―― 千樹万樹 梨花の開けるが如し
(中略)
輪薹東門送君去 ―― 輪台の東門 君の去るを送る
去時雪満天山路 ―― 去る時 雪は満つ 天山の路
山廻路転不見君 ―― 山廻り路転じて君を見ず
雪上空留馬行處 ―― 雪上空しく留む 馬行きし処
(岑参「白雪歌」)

北風が砂を巻き上げ草を折って去る頃に
この地では静かに雪が舞いはじめる
その姿は
―― 一夜のうちに吹いた春風が
幾千、幾万もの梨花を咲かせ、散らしているようだ

去りゆくひとよ
君のゆく天への路を雪は埋め尽くす
幾重にも曲がる路の先に君を見ることはもうできない
ただ、雪の上に空しく残るのは遠い想い出 ――



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