梨花の散る夜に

(四)―――興子偕老


宣言飲酒 ―― 酒を飲み 宣ひて言ふ
興子偕老 ―― 子と共に老いん

誓いの盃を交わしましょう。
あなたと共に、共に老いてゆきましょう。
婆になり、爺になり……
―― 命尽きるまで 愛するあなたと在りましょう

◇◆◇◆◇

俺が二度目に燕子庵のある惑星を尋ねたとき、そこは深い雪に覆われていた。
あれからどうやら数ヶ月しかたっていないことが街で雪だるまを作っているガキが以前と変わっていないことでわかって少しほっとする。
その日、雪の合間に珍しく顔を出したであろう太陽に雪は銀色にきらめいている。
しんと静まり返った辺りは、そのきらめく音さえも聞こえてきそうだった。
きらきら、きらきらと、きらめいて照り返し、眩しくて、美しくて、荘厳で。
雪はすべてをそっと冷たく包み込み、一点の曇りも無く何処までも清浄だ。
この清浄さは、光の満ちた光景にも関わらず、どこか夜の闇の安らぎにも似ていると何故かその時思った。
そう思った理由は特に無かったけど、
この惑星で「白」は「死」の色なんだと知ったのはそれからすぐ後の話だ。

燕子庵に向かう途中、
歩く度に粉のような雪がぎしぎしと鳴いて、面白くて、雪の珍しい俺は、思わず野っぱらに足跡をつけて遊んでしまった。
我ながらガキくせーことをしてしまったと思ったけどよ。誰も見てなかったからいいや。
道々、まだ遠い春を待ち切れないかのように、紅の椿の蕾が雪のをかぶって顔を覗かせている。
棠花の今日の花簪として、もってってやろうかと一瞬思ったが、
きっと雪の中で咲こうとしている花を美しいからといって手折ることは、あの燕子庵に住む人々は望まないんじゃあないか、と、思い直して伸ばしかけた手を引っ込めた。
それに、花を持ってくなんてガラじゃーねーしな。
代わりにその辺の雪で、南天の実を瞳にみたててた雪うさぎを作る。
今日は奴らとなんの話をしよう?
この間直した花瓶の調子はどうだろう?
そう言えば梨華が直して欲しいものがあると言っていた。それは何だろう?
聖地に持ってかえんないと直せないようなものだったら面倒だな。
おれはかじかんだ手に雪うさぎをかかえて、自分の吐く息の白さがなんだか楽しい雪の道をそんなことを考えながら歩いていった。

◇◆◇◆◇

うそだろう?

この冬の初め
初雪の積もった明け方に梨華が静かに他界したことを棠花に告げられた俺は、口を「う」の字にしてそう言いかけた。
でも、棠花の表情や、なによりも独りぼんやりと雪におおわれた庭を見ている美幻の横顔に、それがたちの悪い冗談なんかんじゃねえってことはすぐに解った。
なにか話し掛けた方がいいんだろうか。
そう思ったが、俺にその言葉を見つけることはできなかった。
人は老いれば去って逝くもの。いつかはこんな日がくるだろうという覚悟があったのだろうか、わたしが、しっかりとしていなければ駄目ですから、と以前より急に大人びたふうの棠花は、大丈夫、私のことは心配しないでくださいませ。といって微笑む。
でもその微笑みの後、祖父に目をやった彼女は痛みをこらえるような表情で呟いた。
爺さまは、あれからけして詩を詠もうと致しません、と。
こんな美しい雪を目の前に以前の彼ならいくらでも雪を愛でる詩が口をついてでてきたであろうに。
大昃(ぜーにいさま)がいらしてくれて、よう御座いました。爺さまもこれで少し気がまぎれましょう……」
そうは言うものの、やっぱりじーさんに話し掛ける言葉を、俺はみつけることができなかった。

梨華の死が俺に与えた衝撃は、彼女がこの世を去ったそれ自体からよりも、それによって静かに、でも明らかな悲しみを抱いてそこに在るひとりの老人の姿からの方が大きかった。
彼の悲しみが、眩しく白い雪のきらめきと一緒に、俺の目の中に、心の中に染み入って来て、眩しくて、悲しくて、美しくて。

「この雪は、弔いの雪ぞ。この白は、弔いの白ぞ……」
じいさんがつぶやいた。俺に向かって言ったのか、それとも独り言だったのかは解らない。
「天も、あれの死を、悲しんでいてくれるのであろう。半生を天のために生きたひと故に」
俺は美幻の隣に腰掛ける。
「じいさん、あんまししょぼくれてると、あの世行ってから梨華にどつかれるぞ。 『おとこのくせに情けない』ってな」
あのばーさんなら、っきとそう言うだろう。ゆーれいになって、落ち込んでるじーさんの後ろ頭どついて舌出して「あかんべー」くらいしそうな程、元気もんだったばーさん。
そのばーさんが、こんなにあっさり逝っちまうなんて思いもしなかった。
その言葉に美幻は少し目を見ひらいてから、微笑んだ。
「あれにはじめて逢ったとき、言われた言葉と同じぞ。
(おとこ)のくせに情けない』とな」
「なんだ、じいさん。そんな昔から尻に敷かれてたのかよ」
俺が言うと美幻は少し昔を思い巡らすように考えてから、
「……そう言われれば、そうかもしれぬ。昔から、あれには頭があがらななんだ」
少し悔しそうなじいさんに俺は思わず吹き出した。それにつられて美幻もくつくつと笑う。

「少年」
美幻が言った。
「なんだよ」
俺が応じる。


庭の雪の白さ。
そして、垂雪(しづりゆき)の音。
何気のない無言の空間。


「そなたが、今日来てくれたこと、嬉しく思う。心から、そう思う」
俺はそっぽを向いて鼻をすすった。
(寒かったから、鼻水がでたんだぜ。言っとくけど)
「べつに。俺はなにもしてねーよ」
そう言った俺の頭を美幻はぽんぽんと叩いた。
しわしわの大きな手は、この冬の雪の日に、とても温かく感じた。

◇◆◇◆◇

少年よ
この天地の間でどれだけの人間が「望む生き方」をできるのであろうな。
生れてすぐに天に召される赤子もあろう
恋人を残して死に逝く戦場の青年もあろう
「望む生き方」を得られぬは、何も自分に限ったことではないと
人は知るべきぞ。
そして、だからこそ人は生きることを尊いと思うのであろうこともな。
では、「生きる」とは何であろう?
人は、今在るその中で幸せになろうと努力しない限り
真に生きることなど実はできぬ。
逆に、真に生きぬ者は真の死さえ
―― 真の安らぎさえ ――
得ることはできまい。
己の運命に背をむけて、逃げていた所で、人は生きることはできぬ。
……梨華の生き様は、それは彩やかなものであった。そう思う。
重い、重い枷を背負いながら、彼女は何処までも彩やかに生きた。
そんな彼女の傍らにいつもいれたこと、私は誇りにさえ思うのぞ。
私はこれで彼女を三度失った。
しかし、これで彼女は ―― 真の安らぎを得たのだな。
長い、長い生という旅の終焉に。

西風の神の名を持つ少年よ
流転するこの世に何も惜しむものなど無いが
ただ、少年の時を惜しむべし
己の運命に背を向けてはならぬ。
頭をあげて、この世界を真っ直ぐに見据えてみよ。
さすれば自ずとわかろう
この世界の、何と美しく、彩やかなること ――

◇◆◇◆◇

宣言飲酒 ―― 酒を飲み 宣ひて言ふ
興子偕老 ―― 子と共に老いん
琴瑟在御 ―― 琴瑟(きんしつ)(ぎょ)に在り
莫不静好 ―― 静好(せいこう)ならざるは()
(鄭風「女曰鶏鳴」より抜粋)

誓いの盃を交わしましょう
命尽きるまで 愛するあなたと共に在りましょうや。
ふたりが白髪となるその時も あなたの隣に置いてくださいまし。
あなたがいつも誉めるこの琴の音の
その調べの如く 我らふたりは調和して
楽しき時も、悲しき時も
寄り添いあって生きてまいりましょう。
ずっと、ずっと。



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