それは、庭の海棠の花が後少しで咲こうとしている、ある、春の終わりの日であった。
降り出した
驟雨が、昼間であるというのにいつの間にかあたりをほの暗くしていた。
風に煽られた水滴が部屋に入り込み床を濡らす。
棠花は慌てて窓際に寄り、扉を閉めようとしたが、ふと、その雨に艶やかに葉を濡らす庭の梨木に目を止めた。
それは、故郷と朋、うまい酒と美しい花とをこよなく愛した棠花の祖父が生前、祖母とふたり庭に移植した木である。
かつて滅びた古い王朝の都のあった地に、人知れず咲いていたものを頼んで譲りうけたものらしい。
祖母は、これは自分の父が苗木を植えたのだと言っていたが、それにしては梨木は見事に老成して、
既に樹木の精をその身に宿しているかの如く枝を広げ、大地に根を張り遥かなる
天漢を……そう、宇宙を見守るかのようにそこに在った。
確かに立派な樹ではあった。
ただ、本来、樹木と言うものは移植に向かないものである。
しかも苗木なら兎も角、ここまで老成した、それも桜と並んで移植の難しいと言われる梨木を此処へ息づかせるのは並々ならぬ苦労があったろうし、何よりも、在るがままのこの世の姿こそ最も美しいと言い、何事にも執着と言うものを見せなかった祖父が何故そこまでしてこの古梨木にだけは執着したのか、それが棠花には解からなかった。
そんな彼女に年老いてなお、少女のような悪戯めいた光を瞳にたたえた、梨の花の名を持つ祖母が
「あの樹は特別でな。あの
爺と
妾がはじめて逢うた場所の傍らにあった梨木の兄弟なのじゃ。よいと言うに、あれをここに移すというて聞かなんだ。……爺は妾にぞっこんゆえのう。ほほほっ」
いつも寝る前に聞かせてくれる物語のかわりに、そう茶目っ気たっぷりに笑いながら教えてくれた。
そんな風に、眠れない夜、梨華が話してくれる物語が棠花は大好きだった。特に、この
天漢が生まれた時のことを物語にした神話が彼女のお気に入りで、何度も、何度もせがんだ記憶がある。
それは、少し切ない物語だった。
◇◆◇◆◇
遥か昔、宇宙にそれを統べる者はいなかった。
ただ、鳳凰の姿をした「宇宙の意志」と呼ばれる神鳥がすべてを見守っていた。
あるとき、宇宙に漢人という種族が生まれた。
漢人は増え、繁栄する。そしていつしか彼等は天を忘れた。
争いが始まり、天には嘆きの声がこだまし、地には紅の涙が河となった。
神鳥は言う
「穢されし地より漢人を滅し、天 新たに誕生すべし」
それを知った漢人の中で、翼をもった種族……飛龍族の長の娘が言った。
「我らの父たる大いなる宇宙の意志よ。我ら漢人はあなたによって生れし生命。
穢れた故にそれを滅ぼし清めると言うのか。
ならばなにゆえ我らを生んだ?滅ぼすために生んだと言うか。
意志よ。それでも己が正しいと言うのなら
まずこの身を切り裂きて、その血をもって天を清めるがいい」
神鳥は応えた。
「我に同じ白き翼を背に持つ娘よ。ならば汝がこの天を統べてみよ。
汝に九つの力を与う。
生命の光 安寧の闇 武き炎に治癒の水 栄明の鋼に豊潤の緑 果敢の風に叡智の地
そして、儚くも美しき夢。
人の子よ。汝がこの天の「母」となりて導くがよい。
慈愛を持ってこの天を導いてみよ。
この穢れを清め、天の嘆きを、地の涙を、すべて消し去ってみよ。
―――汝
宇宙の母故に人の子の母と為ること勿れ。
この禁破られし時 即ち 天の崩壊の時」
娘はこうして、暴虐に満ちた地の償いのためこの宇宙を導く王となった。
そして今でも、この娘の意志を継ぐ尊いひとが独り、この天を支えていると言う。
◇◆◇◆◇
『―――汝
宇宙の母故に人の子の母と為ること勿れ。
この禁破られし時 即ち 天の崩壊の時』
このくだりを語る時、いつも祖母は、彼女に到底似合わぬ哀しい顔を僅かに覗かせた。
「いまでも?ひとりで導いていらっしゃるのですか?
婆様。」
いつだったか、幼い棠花は切なくなって梨華に尋ねた。
梨華は微笑んで、
「独り、と言うわけでもあるまい。
小煩い九人の輩が一緒にいる故に」
そう言った後、ほら、もう眠りや、と言い蝋燭の焔を吹き消した。
「宇宙の母」その言葉に棠花は思ったものだ。母とはどんなものだろう、と。
棠花は父母の顔を知らない。
物心ついた時から、祖父母の手で育てられた自分にとって彼等はそのまま自分の父母であり、特に寂しいとも思ったことはない。
彼等も敢えて棠花の両親の話をしようとはしなかった。ただ、一度だけ祖父・美幻が
「あれは風に恋をしよった。それ故に、風と共に逝きおった」
そう、棠花の母であり、自分の娘である女のことを小さな声で語ったことがあったのは今でもはっきりと覚えている。
そんな彼が、庭の梨と共に、愛した風景が、この燕子庵のそばに在る岩山に囲まれた滝のある風景であった。
紛うことなき桃源郷、現世の浄土。
彼は、この場所が「聖地」によく似ていると、そう言っていた。
そこは、祖父の第二の故郷なのだそうだ。
在る時、その第二の故郷の知人と言う青年が祖父を尋ねてきた。
銀色の髪に、見たこともない金属の銀色の瞳。
冷たく光るその瞳に、一瞬幼い棠花は戸惑ったが、すぐに彼女は、彼に懐いてしまった。
何故なら理由は簡単。
彼が器用なことに、先日棠花が遊び過ぎて壊してしまい泣く泣く諦めた玩具を祖父の酒の相手の片手間いとも簡単に直してしまったからである。
その日、酒盛りは、夜遅くまで続いたらしい。
「やはり、懐かしき朋と飲む酒は格別ぞ」
美幻は嬉しそうに言っていた。
彼の膝枕で、うつらうつらしていた少女は、その後の会話をおぼろげに聞いていたような気がする――
◇◆◇◆◇
「そうか。ディアは聖地に留まったか」
梨華が、爪弾いていた琴の手を止め、切なそうにそう言った。
今は秋。空には仲秋の名月がかかり、涼やかな虫の音があたりの静寂を満たしていた。
銀の瞳の青年―――ダグラス―――は静かに言う。
「……彼女が決めたことですから。そのことについては、もう。ただ……」
「だた、なんと?」
言葉途中で話を切ってしまった青年に美幻が心持ち心配そうに、言葉の続きを促した。
「あの少年に、ひどい言葉を―――」
それだけ言うと、彼は、俯き手で顔を覆う。
―――怖かったんです
青年はそう呟いた。
失うのが、怖かったんです。
生れた時、僕の目は光を知らなかった。はじめて見た空の色は、あの、美しい聖地の空だった。
何処までも、澄んだ蒼穹の空。この世界はなんて美しいのだろう、そう思った。
でも、僕は心の奥で知っていた。僕の故郷の空は、こんなに澄んでいるわけがないのだと……
くすんだ、冷たい灰色の空。
進んだ技術と引き換えに、生れたばかりの赤ん坊が奇形のために死んでいくような惑星。
見たことがないからこそ、それは憎しみにも似ていつのまにか僕の心を満たしていた。
何時か必ず、あの聖地を去る時が来る、それが怖くて仕方がなかった。
一度知った光を、ふたたび、今度は永遠に失うような気がして。
その時訪れる闇は、かつてより深いような気がして。
ディアに出会った時、それでも彼女となら何処ででも、生きていけるような、そんな気がしていました。
いつか失うかもしれない。それは、解かっていた事だったのに……。
―――オマエサエアラワレナケレバ オマエサエ!―――
紅の瞳をいっぱいに開いて、自分を見ていた、自分と同じ髪の色の少年。
彼は今、あの美しい場所で、どんな想いを抱えているのだろう?
突然のサクリアの衰え。それは、逆に彼のサクリアの突然の発生を意味する。
親兄弟、友人と引き離され、否応無しに連れられてこられたであろうあの少年に、自分はなんという『呪い』の言葉を浴びせたのだろう……
「ダグラスよ」
美幻が静かに青年の名を呼んだ。
「聖地を離れ、はじめて外の世界を見たのであろう?この世界は、そなたにとって、美しいか?どうであろう?」
澄んだ秋の空気に冴える明月。
月影に愛でられるようにすすきが揺れていた。
ゆれるすすきの間から桔梗が顔を出し、どこかもの寂しい夜に彩りを添える。
秋の風に遠くから木犀の甘い香りが運ばれて部屋の中を満たした。
梨華が、ふたたび琴瑟を奏ではじめる――
―――紛うことなくこの世は、美しかった。
ダグラスは応えた
「美しくないはずなど、ないのですね。彼女達が、守っている宇宙なのですから。
闇の中でさえ、こんなにも花は美しい。」
その言葉に、美幻は微笑んで、彼の盃に酒を満たす。
「気にすることはあるまいよ。この世のすべては在るがまま。
少年もいつかは大人になろう……言葉の奥の悲しみに気付くことのできる大人に、な」
そして、ふと、悲しみを帯びた表情になり、もう一言付け足した
―――誰よりも闇に近いあの者は、闇の中の花の美しさに気付いたであろうか……
と。
◇◆◇◆◇
翌日、祖父は客人を連れ立って岩山に囲まれた例の滝のある風景を見に出かけた。
棠花がつれてってくれ、とせがむと美幻は少し困った顔をしたあと、自分で山道を歩くなら、と許可してくれた。
祖父はいつだって、棠花に優しかった。
このときだって、結局途中で疲れた棠花をおぶることをわっかっていたのだから……
西登香炉嶺―――西のかた
香炉峰に登り
南見瀑布水―――南のかた
瀑布の水を見る
挂流三百丈―――流れを
挂く 三百丈
噴壑數十里―――谷に
噴く 数十里
欠如飛雷來―――
欠として飛電の来るが如く
隱若白虹起―――隠として
白虹の起つが
若し
初驚河漢落―――初め驚く
河漢の落ちて
半灑雲天裏―――半ば雲天の
裏に
灑ぐかと

仰観勢轉雄―――仰ぎ観れば 勢い
転た雄なり
壯哉造化功―――
壮なる
哉 造化の功
海風吹不断―――
海風 吹き断たず
江月照還空―――江月 照らすも
還た
空し
空中亂衆射―――空中 乱れて
衆射し
左右洗壁―――左右
青壁を洗う
飛珠散經霞―――飛珠
軽霞を散じ
流沫沸穹石―――流沫
穹石に沸く
而我遊名山―――
而して我 名山に遊び
對之心益閑―――之れに対し 心
益ヽ閑なり
(「望廬山瀑布」より抜粋・李白)
廬山の西 香炉峰に登り 東南の滝の流れを見る
落ちゆく水は三百丈 谷間に舞う水飛沫は数十里
鮮烈な稲妻の如く 或いは 朧な白虹の如く その様は
銀河の天から落ちて 宇宙の最中に潅ぐかとおもえるばかり
仰ぎ見て益々雄大なるその姿 なんと、天の御業の美しいことか。
谷を渡る強い風も銀河を断つことはできず、冷たく照らす月光も空しく跳ね返す
みだれ、ぶつかり散飛して 水は 蒼き苔むす岩へと降りそそぐ
飛沫は朧な霧となり 流れは岩にぶつかり裂けて散る
―――この雄大な風景のなかにあって 人の心の穏やかならざるがなし。
―――やはり、世界は美しいのですね
客人はそう、呟いた。
流れ落ちる水 白い水飛沫
飛翔する瑠璃色の鳥
紅に染まった紅葉が滝壷の碧瑠璃の水に一層映え
黄金色の金木犀が甘い香りを放っている。
彼は、やはりこの風景に、祖父の言う「二番目の故郷」を思い出しているのだろうか。
棠花は、そんなことをぼんやりと思った。
◇◆◇◆◇
ゆっくりしていけばいいのに、という美幻の誘いを断り、穏やかな微笑みを残して客人は燕子庵を去っていった。
その夜、少し寂しげな祖父の膝によじ登り、
「お友達が帰ってしまって寂しいのですか?」
そう尋ねる。
棠花の髪を撫でながら彼は言った。
「そうさの、寂しいと言えば寂しいが……生きてさえいれば、また逢うこともあろう。
生きていれば、な」
棠花は急に不安になり、きゅっと
爺に抱きつく。
「爺さま、ずっと、ここにいて下さいませね。ずっと、棠花と一緒に、ここに……」
後ろから、梨華の笑い声がする。
「棠花、その爺は、妾のものゆえ、いくら可愛い棠花の頼みであろうとやらぬぞ」
「梨華……」
呆れたように、照れたように、でも、嬉しそうに祖父は長年連れ添った妻を見つめた。
「長年あの地で過ごしたは、妾も同じじゃが―――
そなたにとって、かの仲間たちは、『金蘭』なのじゃのう……少し、妬けるぞ」
そういう梨華に、美幻は慌てて
「そ、そなた何を申す。妬けるなどと―――私は……」
くすくすと笑いながら、梨華は美幻の後ろからふわりと抱き付いた。
「『私は、そなたが一番大事』かえ?知っておるぞ。そんな事は」
年甲斐もなく……と紅くなっている祖父を見ながら、
爺さまは、婆さまに、頭が上がらないのですね(……前から思ってはいたけど)。
棠花はそう思い、くすりと笑った。
その笑いの意味を問われる前に、棠花は尋ねる。
「爺さま、婆さま、『金蘭』とは何の喩にございましょうや?」
美幻はいつもの表情に戻り、その問いに答えた
「『二人心を同じゅうすれば、其の利、金を断つ 同心の言は、その香蘭の如し』というてな。(二人同心 其利断金 同心之言 其香如蘭:孔子)なにものにも代え難い深い友情のことを、金蘭の交わりというのぞ」
其の後、美幻はしばしなにか物想いに耽っていたが、棠花を膝の上に座らせ直し、やさしくいった。
「いつか遠い未来、この地に、この爺の『金の蘭』がふたたびやってくるやもしれぬ」
「……ダグラス兄さまが、また、いらっしゃるのですか?」
「いや、そうかもしれぬし、そなたの知らぬひとかもしれぬが、棠花、ここを守りながらそれを待ってやっていてはくれぬか?
そして、あの景色を、見せてやってはくれぬか」
―――きっと、彼らは何らかの心の空洞を抱えているに違いない。それを癒すために、この風景を守って……
「美幻、それでは棠花が嫁にもいけませぬぞ」
呆れたように梨華が言った。
そうか、そうであったなあ、と笑う美幻に、棠花はいいえ、と首をふって
「嫁になどいきませぬ。ここで、爺さまと、婆さまと、ずっと、ずっと、一緒にこの庵を守ってゆきましょう?それで、ようございましょう?」
梨華が朗らかに笑った。
「そのようなこと、言っていいのかえ?年頃になればそなたもほれ、恋の魔法に囚われるゆえ。
よい恋をするのじゃぞ。……妾のように」
外では鈴虫が 凛凛と 涼やかな音をたてていた。
◇◆◇◆◇
それから、何年あとのことだろう?あの光景は。
梨花が散っていた。
春のことなのだろう。
―――じいさま、お風邪を召します。早くお館へ……
じいさま?
ひとりの少年が梨花の下に佇んでいた。
手には、壊れていたはずの祖母の銀簪が綺麗に直って握られている。
彼の紅い瞳に、涙が滲んでいる。
梨花が、潸潸と散っていた。
雪のように。
ただ、潸潸と……

孔明の鳴き声に棠花は我に返る。
雨の音がはっきりと聞こえてくる。どのくらい、物想いに耽っていたのだろう。
「どうしたというの。孔明」
ふわりと、なにか言いたげな黒猫を抱き上げると、棠花は昼餉の支度の頃合いね、と呟き菜園へと向かい外へ出ようと立ち上がる。
ふと、先程の物想いの中の十五・六の少年を思い出す。
彼は、今頃どうしているのでしょう?
一時期、何処からともなく現われて、燕子庵に顔を出していた、兄のような少年。
祖父の「金の蘭」、ダグラスに、何処となく似ているような、全く似ていないような少年。
もう、いい年のおじさんになっているでしょうに。子供のひとりもいるかもしれない。
そんなことを考えながら、なんとなく、かつてその少年に直してもらった祖母の形見の銀簪を艶やかな髪にそっと刺し、外へ出た。
雨は、相変わらず降っている。
「……孔明……?」
腕の中で、猫が騒がしい。如何やら、門の前に誰かがいるようだ。
雨宿りでもしているのかもしれない。
棠花は何故か、心が昂揚するのを感じた。
その想いは、門を開けそこに佇む男を見て、一層強くなる。
雨に打たれ、鈍くきらめく金の髪、金の瞳。
明らかに、はじめて逢う人だというのに。
どこか―――何故か解からないけれど―――懐かしいと感じさせるひと……
微かに揺れた銀簪が、紗羅紗羅と音をたてた。
棠花はゆっくりと口を開き言う
―――この様な山奥で驟雨に遭ってはさぞかし難儀で御座いましょう。どうか奥へ―――
そして、二人の物語は、ここより、始まる。
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