海棠の夢

(伍)――飛龍(ひりゅう)


「じゃあ、君が云っていた『ずっと待っていた人』というのは俺だと?」
見せたい場所があるからと、庵の裏手に高くそびえる崖のあいまに続く細い道をたどりカティスは呆気にとられて云った。
それが本当なら、俺は何を苦悩していたのやら。
思わず苦笑してしまう。
(はい)。おそらく、そうだと。祖父との遠い昔の約束です。 いつか、自分の『金の蘭』が此処へ来たら、これから行く場所を見せてほしいと。逢えば判ると、祖父は云っておりました。 そして、妾は、貴方様と思ったので御座います。理由は……御座いません」
『金の蘭』というものが、何の比喩(たとえ)なのかカティスには解らない。
しかし、彼が――古い親友が、自分に何かを伝えたいと思っていたであろうことは明白である。
いったい、何だと云うのだろう?
ふいに、左右から圧迫するようにそびえていた岩肌がなくなり開放感が辺りに満ちる。
もっとも、白い霧が覆っていて、視界はほとんどない。
「お気おつけくださいましな。これからは下りに御座います。そちらは、崖縁となっております故、くれぐれも……」
その時、かすかな風が吹いて、棠花の肩掛けがひらりと落ちた。
無意識の内に、それを拾おうとしてそちらへ足を進め手を伸ばしたカティスは、自分の足元に地面がない事に気付く。

「!!」

しまった、と思った時はもう遅い。
数回の衝撃の後の、明らかな自由落下の感覚。
棠花(タンホア)の声が遠くで聞こえたような気がした。

なんてこった。
落下の最中(さなか)
痛いほどの風を感じながら、カティスは意外と冷静にそんなことを考えていた。
どれほどの高さの崖なのだろう?どのみち、この速さで地面に落ちればお終いか。
心残りは……ありすぎである。
せっかく出逢えたと思った、愛しい人。
君に、もう、逢うことはできないのだろうか……
「棠花……」                            

彼がそう、ほぼ遠ざかる意識の内に呟いた時、ふわり、何かが包み込むように己の体を支えるのを感じた。
視界に入る、白い、白い翼。
それは、昔、忠誠を誓った尊い人の翼にも似て。
どこまでも白く、清らに輝いていた……

◇◆◇◆◇

濤濤(どうどう)と滝の流れ落ちる音が聞こえた。
ほほに、冷たい水滴が当たる。
そして、それとは対照的な、軟らかな手の温もり。
霧は、いつのまにか掻き消えていた。
四方を囲む高い岩肌の谷間にある広い空間。
さらに高い山頂から地下を通ってきた水が溢れ出で、雄大な流れとなって滝壷へと落ちてゆく。
その水は深く、澄んだ蒼から翡翠の色へと変化していた。
水飛沫(みずしぶき)に反射した日の光が七色に別れて煌いている。
岩肌に囲まれ、ぽっかりとした空洞のような空に、青い柳がゆれて映えている。
薄紅の花が咲いている。
白い鳥が飛んでいる。
緑の風が通っている。

ここは、いったい何処だ?
はじめて見る風景。
けれど、何処か懐かしい。
ああ、そうか、聖地に似ているのか。
ここは、こういう場所を、昔聞いた言葉で―――桃源郷というのだろう。

カティスは、暫らく自分の置かれている状況を飲み込めず、呆然としていた。
風景もさる事ながら、驚いて声も出ない理由がもう一つある。
しかし、恐る恐る、口を開き、彼の頭を膝にのせ、心配そうに覗き込んでいるひとに云った。
「棠花……君はいったい……?」
その背に広がる、白い、白い、翼。
幻ではなかったのだ。
事実、自分はこの翼を持った棠花に助けられている。

棠花は微笑んで云った。
我らは、飛龍(ひりゅう)の一族の末裔に御座います。
と。

遠い、昔、この惑星は翼を持つ飛龍族の住む惑星であった。
一説には、この宇宙の初代女王が飛龍族出身であり、象徴とされる翼はそこから来た、とも言われているが定かではない。
飛龍族は次第に混血が進み、純血を尊しとした皇族にのみ名残として白い翼を持つものも産まれたが、いつしか、その血統も市井に紛れ、伝説にのみ残っている存在であるはずである。
最後の飛龍族皇帝は瞬王朝・翡宗(ひそう)
自らの意志で女王領の傘下に入る事を決定した皇帝であった。
しかし、その皇帝のも、すでに伝説になるような昔の話なのだ。
少なくとも、長い時を生きてきたカティスでさえ、知識としてしか知らぬほどに昔の話である。

「皆は、隔世遺伝と申しております。なにやら、祖母が……古き血を引いていたとかで」
でも、ようございました。このおかげで貴方様を助けることができましたもの。
棠花は屈託なく笑った。
その翼を広げるとき、身を切るような痛みがあると聞く。
カティスはそう尋ねたが棠花はご心配くださいますな。
と微笑み、一瞬のきらめきの後、その翼は消えていた。
「幼い頃こそ、痛みに泣きもしましたが、今は何でも御座いません。それよりも、貴方様こそ、お怪我は御座いませんでしたか?」
我に返り、カティスは身体を動かしてみる。
あちらこちらに打撲のような痛みはあるがたいしたことはなさそうである。
「ああ、平気なようだ。ありがとう……おかげで、助かった」
「お礼なぞ。妾も、何が何だか解らぬ内に、飛翔しておりました故」
そして、ふたりは顔を見合わせて笑った。

一息つくと、カティスは改めて風景を眺める。
「桃源郷とはこのことだな」
そう言った。
「この風景を、見せたいと?」
「はい。此処こそが、燕子庵と共にずっと、守ってきた場所に御座います。ここは現世(うつしよ)の浄土。祖父もこよなく愛しておりました。かつて、長く住んだ土地に似ていると」
「そうか。美幻(メイファン)殿がな」
カティスが口にする、祖父の(あざな)に棠花は驚き尋ねる。
「……貴方様は、いったい……そして祖父は、祖母は……。いいえ、よう御座います。(せん)無きことをお尋ねしました」
棠花は立ち上がると、こちらへ、とカティスを誘った。
もう一つ、見せるべきものがあるという。
彼女の歩く先に、岩がえぐれて洞となっている場所がある。
中へはいると、そこはひんやり涼しい。
……葡萄酒倉(ワインぐら)にちょうどいいな……
カティスはそんなことを考えている。
暫らくすると、暗い洞のなかで目が馴れ辺りのものがぼんやり見えてきた。
そこに、小さな祠をみつける。扉には、紙で封がしてあった。
棠花は冷静に言う。
「ここに、不老長寿の妙薬が安置されていると聞いております」
「!!」
カティスは二の句が告げない。あれは、ただの噂ではなかったのか?
「貴方様にのみ、この祠の扉を開ける権が御座います。それが、祖父の願いです」

古い友は、いったい俺になにをしろと言っているんだ?
意識しないのに、鼓動が早くなるのを感じる。
カティスは、その小さな祠の扉に手をかける。
封をしていた紙がひらりと落ちた。
目をむけたが、八行程の文字は、例の如くカティスには読めなかった。

花間一壷酒―――花間 一壷の酒
獨酌無相親―――独り酌んで相親しむもの無し
挙杯迎明月―――杯を挙げて明月を迎え
封影成三人―――影に対して三人と成る
月既不解飲―――月 既に飲を解せず
影徒随我身―――影 徒に我が身に随う
暫伴月將影―――暫く月と影を伴い
行楽須及春―――行楽 須(すべか)らく春に及ぶべし
(「月下独酌」―李白)

 

芳しい華に酒徳利を持ち出したはいいが
共に呑んでいた朋よ おまえがいないのは寂しいものだな
だから盃をかかげて月を招き
己の影とをあわせて三人の仲間と思おう
だがいかんせん、月は酒が呑めず
影も私と同じ振る舞いをするだけ
まあ、しかたあるまい。とにもかくにも月と影と共に
―――ゆく春を惜しむとするか



扉が軋んで開く音が、洞のなかに響いた。
恐る恐る開いた扉の内に、重々しく鎮座ましましている物体。
これは……
男は目を丸くする。
そして、つぎの瞬間、ぶっ、と吹き出して笑ってしまう。
これは、かつて、聖地を去る美幻に手渡した、自分の作った葡萄酒ではないか!
ラベルの部分に手書きの主星語でこう書いてある

「此れ当に不老長寿の妙薬なり」

まったく!美幻殿、あんたと言う人は……!
唐突に、笑いこけているカティスに海棠が不思議そうな顔をする。
笑いすぎて滲んできた涙を人差し指で軽く拭き取りながら、カティスは愛しい女に語り掛けた。
「ああ、まったく、君の御祖父さんには参ったよ。昔から御茶目な人だったが、ここまでだとは!」
風に乗り、美幻のくつくつ、という楽しそうな笑い声が聞こえてきそうである。

―――そなたの葡萄の美酒、もったいのうて、最期まで呑めなんだ。
惜しい気もするが、まあ、いずれ、月影とこの風景を肴に呑んでくれぬか。
独りで呑むはつまらぬなどと、言ってくれるな。
月に照らされできた御主の影を私だと思って―――

ああ。そうさせて貰うさ。
だが、その前に……許可してくれないか。あんたの大切な孫娘、俺がもらうってことを。


海棠の肩を抱いて洞の外に出たカティスの金の髪を、やさしい風が揺らしていく。
祝福していてくれると、思っていいよな、美幻殿。
蒼く澄んだ空を仰ぎ、彼は呟き、そして棠花に言った。

「さあ、何処から話そうかな。長い、長い話だ」

ここから、遠く離れた美しい土地の話、君と同じ、白く美しい翼を持った尊い方の話、孔明と公瑾に何処となく似た奴等を含む、友人達の話。
そして、……美幻(メイファン)殿と、梨華(リーホア)様の話を。

「だが、その話を終えるまで、俺はここで君と共にいてもいいだろうか?もっとも、一生かけても、語り尽くせんだろうがな」
棠花は艶やかに笑い云う。
(はい)(ばば)になり、土に還えるその時まで、御聞きいたしましょう。その、長い、長い話を―――」
ふたりはみつめあい、そして静かに接吻を交わす。

それを知るは唯、聖地にも負けぬ桃源郷の如き風景のみ。

"華"と呼ばれる辺境惑星の
さらに辺ぴな山奥に
「燕子庵」と言う宿屋があって
美しい女が庭で作った野菜の料理と、気さくな主人の作る芳醇な葡萄酒が
気侭な旅人の疲れを癒し
さらには健康長寿の御利益有りと
密かに話題になってるそうな―――

    ―――終劇

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