あの日の冒険の続きを (中編)
――「また会おう」その後。

◇◆◇◆◇

それから一旦私たちは街へ戻り、例のチェーンストアへ入った。既に昼を回っている時間だ。空腹だと言った少年に腹ごしらえをさせた後、水分補給用のミネラルウォーター、数日分の携帯食料と軽い防寒具などを揃える。
それほど長い旅になる予定はないが、万が一のためだ。
川沿いを歩き続く山道を登るのに、流石に今履いている革靴では問題だろうと、私は歩きやすいスニーカーも購入した。少年に靴は平気かと訊ねると、問題ないと頷いた。
靴をスニーカーに履き替えた後、荷物になるので店の外のごみ箱に、履いていた革靴を棄てる。
それを見て、少年が言った。
「…… ふうん」
「どうかしましたか」
「別に。上げ底だねって、思っただけ」
「なっ!」
頭に血が上って、私は口を幾度かぱくぱくさせたかも知れない。冗談ではなく、事実であったのがよけい痛かった。なによりも言い方が、ナマイキだ。
「そ、そ、そ、そんなことは、どうでもいいッ!」
「そうだね、どうでもいいね」
(作者註:マコやんの靴が上げ底なのは、公式設定)
少年はすたすたと、先を歩き出す。頭に上った血を深呼吸で納めてから、私はその後を追った。
ふと、彼が歩みを止めた。
「服は?スーツのまま行くの?」
私は頷いた。スーツは存外動きやすく、保温と吸湿に優れ、服が汚れる事を気にしなければ野外活動にも向いているのだ。そう説明すると、彼はまた、ふうん、と言って、すたすたと先を歩き出す。
もっとも、野外活動の経験などここ十数年ないわけだが。

こうして、家出王子と十年ぶりに引きこもりから脱した男の、紛れもない珍道中がはじまった。

◇◆◇◆◇

林を抜け、川に出る。ここからは道なき道を上流へ向かい目指す、といえば聞こえがいいが、実際は川沿いにある山道を普通に登る格好になった。
薄曇りだった空は、午後になって晴れてきていた。
浅い春の、まだ枝ばかりが多い木々を透かした太陽光が川面を照らす。そのきらめく早瀬を横目に歩きながら、私は思わず鼻歌を歌っていた。
十三年前、幼なじみと共に冒険をするきっかけになった映画の主題歌だ。
少年が聞いてきた。
「なんの歌?」
「昔、流行った映画の主題歌だ。だが、そうか。君はまだ生まれてなかったんだな。知らないだろう」
靴のやりとりの一件以降、私は彼に対しての敬語をやめた。彼もべつに私の態度を不遜とは思っていないようだった。
「知ってても、わからないかもね」
「何故だ」
少年は表情を変えもせずに、あっさり言った。
「音痴だもの」
…… 彼は、なかなか手強い。

最初、私は自分よりも体力の乏しいであろう少年を気遣い、幾度か、得に大きな段差や足許(あしもと)の悪い塗れた岩の上を通る際、彼に手を差しだした。
「大丈夫か、少年」
ところが彼は、差しだされた手をしばらく眺めた後、私の顔を一瞥し不快そうに眉を寄せてから首を振る。
「いらない」
ずいぶんと、負けん気が強いようだ。
それから一時間も山道を登ったろうか。私は徐々に、ある現実を思い知らされることになる。
圧倒的な、運動不足だ。
生活に何一つ不自由のない室内の中で、健康維持に必要な最低限の体力作りは行っていたが、流石にいきなりの山歩きは厳しいようだ。
たとえそれが、ただの家族用ピクニックコースレベルだったとしても。
一方少年はといえば、子供特有の元気の良さなのだろうか、それとも常日頃ある程度の鍛錬を積むことが義務になっているのだろうか、足取りはまったく変わっていない。
先導していたはずの私が、いつの間にか彼の背中を見ながら、息を切らして歩いている。
この時、少しばかり大きな岩の段差が現れた。少年はその段差を軽々と乗り越えた。思わずよっこらしょ、と声を上げてよじ登ろうとした私に、少年が振り返る。
それからおもむろに私に手を差し出し、にやりと笑った。
「大丈夫?おじさん?」
私は悔しさを隠しきれずに、咄嗟に言う。
「い、いらない!」
負けず嫌いなのは、私も同じようだ。しかも、七歳の子供と、同レベルで。
少年はさして不快に思った様子はなく、むしろ、ふふん、とばかりに私をながめやってから、見せつけるようにその先の坂道を軽々と駆けていった。
岩をよじ登り、再び彼を視界にとらえたとき、彼はまたも現れた大きめな段差を乗り越えるため、頭上にはり出た細めの枝に身軽にも飛びつこうとしているところだった。
枝の細さ。子供の勢い。枝の先に芽吹いている若葉の形。
様々な情報と記憶が頭の中を駆けめぐる。
考えるより先に、体が動いていた。
「危ない!」

―― あー、また渋柿やんな。
―― チャールズ、勝手に人様のうちの柿の木から持ってきて、それはないよ。
―― 三丁目の角の家の柿なら、甘いんやけどなー。
    上の方にしか、実が成らんのやもん。取れへん。
―― チャールズ、僕の話、聞いてる?
―― 柿は枝が折れやすいから上の方まで登るもんやないって、
    マコやんとこの爺様も言っとったしなー。
―― …… チャールズ、僕の話、聞いてる?

予測通り、勢いよく飛びついた子供の体重を支えきれずに、細い柿の枝が折れた。
バランスを崩した少年の体を、私は間一髪、抱きかかえて支えていた。
彼は僅かな間何が起こったのかわからない様子で、私の腕の中で目をぱちぱちと、しばたたいていた。
手にした折れた枝を見て、状況を理解したのだろう、私の顔を見上げる。
先頃、さしのべた手を「いらない」と断った彼のことだ。勝手に助けた私を怒るかも知れなかった。手を出さなかったところで、たかだか足をひねるくらいだったろうか。だが、バランスを崩して頭から転倒すれば、この山道だ。思いもかけぬ惨事にだって繋がったろう。だから無論のこと、私は手助けしたことを後悔などしていなかった。この後彼が私を皮肉ったり、怒ったりしたとしても、だ。
が、予想に反して彼は言った。
「ありがとう」
なんだ、素直なところもあるではないか。
「柿の木は、枝が折れやすいのだと聞いた」
だから、礼ならば、私の祖父と幼馴染みに言って欲しい。
「そう、なんだね。白亜の植物はしなやかな枝や蔓が多いから、油断した」
言いながら立ち上がろうとして、少年は僅かに顔をしかめた。手のひらに小さな擦り傷ができている。
「見せなさい」
「たいしたこと、ないよ」
確かに、そうだろう。が、念のためだ。
持っていたミネラルウォーターで洗った後、丁度彼が折った柿の枝についていたやわらかな若葉をちぎる。日当たりが良いせいだろうか、季節のわりに萌芽が早い。葉を軽く揉んでから、傷口にあてる。何か包帯代わりになるものは無いだろうかと考えて、現状無用な長物である私のネクタイに気付いた。ネクタイをはずし、縫い目を裂いて開いてから彼の手に巻く。少々不格好だが、私にしては上出来だ。
「柿の葉は、殺菌作用がある。気休めかもしれないがね」
感心したように少年は、へえ、と息をついた。
「山歩きなんかしたことなさそうなのに、意外なこと知ってるね」
「この道を来るのははじめてだが、小さな頃は、良く外で遊んだからな」
私も覚えていることが意外だった。
最初に教えてくれたのは祖父だったろう。そして、実践する必要を生じるのは私ではなく、いつもチャールズだった。
祖父が逝った後も、チャールズが祖父の言葉をただの知識としてとどめずに、生き生きとした息吹を与えていたことを嬉しく思ったことがある。
そんなチャールズの行いの記憶が、今度はこうして私と少年の縁の切欠となる。
不思議な、(えにし)だ。そう思った。
この小さな事件を境に、私たちの距離は少しだけ縮まったようだった。
浅めの谷底に清流を望む眺めの良い場所。
岩に腰掛け休憩を取りながら、珍しく会話が続いた。もっとも、内容はなかなかに物騒ではあったのだが。
というのも、ここに来て、私はある一点に思い当たったのだ。
七歳の少年を、妖しげな男が一人、連れ回しているという状況に、だ。
私は彼の身元を知っているが、彼は私が誰だかを知らないはずだ。よく警戒もせずについてきたものだと、思ったのだ。
私が言うのも何だが、それはあまりに危機感がなさすぎやしないだろうか?
ましてや彼は、普通の子供ではない。
私の疑問を聞くと、
「まったく警戒しなかったわけじゃないよ」
そう言った。
「でも、まず僕の名前を知っている時点で、その情報を得られる環境の人なんだろうとは思った」
「だが、身代金目的の誘拐犯だったらどうする」
少年は、にこり、と笑った。
「店で靴を履き替えた後、革靴を棄てたよね。上げ底の」
上げ底は、余計だ。だが、私は頷いた。
「まだ、傷もない綺麗な革靴だった。しかも上げ底の特注品。それを躊躇いなく棄てる時点で、少なくともお金に困っている人ではないよね」
だから、上げ底は、余計だ。だが、そういう、ものか。
「あと、スーツの機能性の話もね、もっともなんだけど、それって仕立ての良いシルクに限られるよ」
彼は手に巻かれた包帯代わりのネクタイを見せ、これもシルクだね。そう言ってから、ペットボトルの水を口に含んだ。
「シルクのスーツを仕立てるのは、統計からするとだいたい年収200万白亜貨幣以上のホワイトカラー層。年収がそれ以下の場合は混合から綿100、化繊ってなってくって書いてあったよ、この間読まされた本に。
平日の昼間、誰の許可も取らずに"冒険"を決行できる立場にあって、シルクのスーツを冒険着にした挙げ句”汚れても良い”って言ったあなたは、よっぽどの資産家か、世間知らずかどっちかだよね。それとも両方?」
王宮で育ったであろう七歳の子供に、世間知らずと言われるとは思っても見なかった。だが、恐ろしいほどの図星だ。しばらくは二の句が継げなかったが、ようやくあまり面白くもない反応を返す。
「驚いた。ずいぶんと、君は賢い」
この時、彼が表情を曇らせた。年齢に見合わぬ、どこか自嘲的な表情。
「…… 僕はにいさまと違って凡人だから、知識でフォローしないといけないだけ。それと、ここ数ヶ月で色々たたき込まれた中に、たまたま含まれてた情報を覚えてただけだよ」
にいさまと違って(・・・・・・・・)
半ば忘れかけていた、この少年の家出の理由を思い出した。
だがそれは違う、と私は思った。
仕事での上のことなら、彼の兄との多少の繋がりはあった。外から聞く評判も、賢王として(かんば)しいものであったし、実際の印象もその通りではあった。
だが、この少年が思うように、彼が殊更強烈な天賦の才を持ち合わせていたわけでは、ないと思うのだ。
無論資質も関係したかもしれないが、幼い頃から施された礼儀作法、帝王学、外交術。
どれだけの努力の積み重ねが、そこにあったろうか。それらの犠牲を全て無視して、才能という言葉で片付けてしまうのでは、却ってあの十六歳の若者が哀れな気がした。
ましてや、幼馴染みから伝え聞いた彼の素顔は、時折子供らしさを覗かせる素直な少年の姿だった。
ところが、兄王は目の前の少年の中で神格化されてしまっている。
違う。違うと思う。
だが、この事を彼に教えるのは今ではなく、自分の役目でもないように思えた。
いつか彼自身が、気付かなければいけないことだ。
この宇宙にもういない彼の兄も、おそらくは普通の十六歳の少年の一面を持っていたであろうことを、彼自身が気付かなければ意味がないのだ。
そしてもう一つ。知識を得ることは、やろうと思えば誰にでもできる。だが重要なのは、その知識を相応しい時に相応しい形で利用できるかどうかなのだ。少なくとも、この少年はその資質を持ち合わせている。訓練の賜以外でやってのけたのであればこれこそを ―― 天賦の才と、呼ぶのではないのか?
いつか、この事にも、彼は気付くだろうか?
ここで、私は話題を変えた。現実的な側面の話題だ。
「このまま先へ行けば、野宿になる。どうする、戻るか?」
日は既に、夕方とまではいかないが橙色がかった心細い色合いになっていた。日没までに戻りたいなら、このタイミングで下山するしかない。
「おにいさんは、それでいいの?あなたの冒険は終わった?」
正直、よくわからなかった。このまま先の道へ進んだところで、人生を変える劇的な何かが私たちを待っているとは思えなかった。だが、終わったのか終わってないのかと問われたなら。
終わってはいない、気がする。
「いいや」
「なら、行く。つきあうよ」
ペットボトルを両の手の間で転がしながら、少年はそう言って、にっ、と笑った。



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2009/03/07 佳月 BGM:Stand By Me/Mountain Road