また会おう



◇◆◇◆◇

週末の高速ラインを走りながら、こうして自分で運転をするのはずいぶん久しぶりだとチャーリーは思った。
曇天のせいでまだ日の入りには早い時間なのに窓の外は暗く、早めにライトを点灯すると待っていたようにぽつぽつと冷たそうな雨が降り出す。
天気予報の通りだ。もしかしたらこのままこの冬初めての雪にでもなるかもしれなかった。
先ほど適当にあわせたチャンネルから聞き覚えのあるナンバーが流れてくる。
確か少年時代に幼馴染と見た青春映画の主題曲。そのせいかとうか単純で軽快な曲調とは対照的に耳にして浮かぶ印象はひどくノスタルジックだ。
規則正しく窓硝子を這うワイパーはメトロノームのようにも見えたが、背後に流れる曲とは微妙にタイミングが合わず、それゆえ感じる居心地の悪さを誤魔化すため彼はその歌を一緒に口ずさむ。


―― 何も恐くはない
―― そうさ、恐くない
―― 僕等が一緒にいれば


そうして歌ううち、運転に意識を集中させようと思いつつも、いつしかこれから訊ねるひとつ年下の幼馴染との思い出が、彼の脳裏に飛来していた。

◇◆◇◆◇

それは俺が十三歳だったときのこと。ちょうど、プレップ・スクールの最後の夏休みだった。
そして今となっては腐れ縁的な幼馴染マックニコル・セティンバー ―― マコやんと所謂『少年の夏の日』を過ごした、最後の夏でもあったと思う。
その年流行った映画は、十二才の少年たちが夏の日の冒険を経て友情を深める話で。
影響されやすい俺は、ひどく感動して同じ年頃の自分たちも何か冒険をして友情を深めよう、などと、当時からあまり戸外活動に積極的ではなかったマコやんを引っ張り出して冒険の計画を立てた記憶がある。

―― よっしゃ、冒険や!
―― 冒険、っていったい何を。
―― 何だってええやん、兎に角、冒険しよ、冒険。
―― チャールズ、そうは言っても。

おどおどと言う彼に、さして怒ったわけでも無いが少しだけ不機嫌な顔をして俺は言う。
実際、ひとつだけ彼に対して不満に思っていたことがあったのだ。

―― なあマコやん、いーかげん「チャーリー」って呼ばへん?いつまでも余所余所しい。
―― だって。
―― なんや。
―― おとうさんと、おかあさんが。

彼はそこで、気まずそうな顔をして言葉を濁した。
そのとき俺はてっきり、彼の両親が商売敵であるウォンの後継ぎと、自分の息子が仲良くするのを好ましく思ってはおらず、それゆえに親しげに愛称を呼ぶことを躊躇っているのかと解釈した。
いつぞや遊びに行った時に、ウチのおかんとはずいぶん違って優しそうで、ふんわりとした美味しいケーキを作ってくれた ―― 当時自宅の手作りおやつはトラ焼きとか、たこ焼きとか、そんなんだったから、それをシェフでなく母親が手作りできると言う事実が驚きだった ―― 彼の母が、本当は自分というか自分の一族にそんな感情を抱いているという考えはちょっぴり痛くもあったが、仕方ないことだとも感じる。
もちろんだからといって、マコやんとの付き合いをそれを理由にやめるつもりは無かったけれど、ただそれを理由になどしなくとも、徐々にこんな自由な時間は得られなくなってゆくであろうことに気がついてしまっていたのだ。
こんなふうに。
この後、否が応でも自分の上には常にウォンの名がついて回る。それをわざわざ後ろ向きにとらえようとは思っていなかったが、『唯の自分』というものをいつしか誰もみてくれなくなるかもしれない、失ってしまうかもしれないという漠然とした不安を抱かずにいられるほどには大人でもなかったように思う。だから、あの時無茶苦茶なのをわかりつつ言い出した冒険というのは。
俺が唯の俺として過ごせるは最後かもしれないあの夏休みを、何とかして特別なものにしようという気持ちの現れだったのだろう。

―― よっしゃ、決めた。明日、林の向うの川伝いに上流を目ざすんや。
―― 目指してどうするの。

確かに、目指しただけでは冒険とは言えない。でも目指した先に、何かがあるというふうな夢をちょっとだけ持ちたかった。
だからバカ真面目に現実的なことを言って返すマコやんに、俺は映画のストーリーを真似して答えた。

―― もちろん死体探しや。

彼は目をまん丸にして、しばらく口をパクパクさせていたが、やっと落ち着いたらしくあえぐように言う。

―― ぼ、僕は、やだよ。チャールズ、死体を捜すなんて。
―― あー、だめやなぁ。マコやん。そこは「あるわけないやろ!」って突っ込みいれるとこやで。
―― え?え?
―― ほんま、いつまでたってもボケとツッコミ覚えへんのな。

こんな風に彼はいつだって、俺の言った冗談を真にうけた。
それが面白くもあり、嬉しくもあり、物足りなくもあり。
不満そうな俺の表情に気付いたのだろう、彼は、でも、だか、だって、だか、兎も角そんな言葉を口の奥でもごもご言っていた。
それから不意に真剣な顔をして。

―― 僕はね、チャールズ、君のことをチャーリーとは呼ばないし、君の言う言葉を嘘だと思うこともきっと無い。でもそれには、ちゃんと理由がある。

なんだか、妙にシリアスになってしまった会話に戸惑って、俺はぽりぽりと頭を掻く。
いや、嘘でなくてボケなんやけど、と茶化してしまいたかったのだが、マコやんの様子にはそれを許さないものがあった。

―― 理由て、なんや。
―― …… おしえない。
―― わかんないやっちゃなぁ。

すこし白けてしまった場の収拾をつけるため、俺は無理やりマコやんに約束させる。

―― あー、なんでもええや。明日十時、弁当持って林向うの川原に集合や!今日はこれでさいなら、マコやん。

言って家に向って歩き出した俺の背中に、彼の声が聞こえた。

―― うん、またあおうね、チャールズ。

◇◆◇◆◇

ところが、だ。
翌日約束した川原でいくら待っても彼は姿を現さなかった。
彼が待ち合わせの場所にこない理由を、本当なら何らかのアクシデントがあったからだと俺は気付くべきだったのだ。
けれども前日、乗り気でない彼を無理やり付き合わせようとしたという自覚があっただけに、俺は黙ってすっぽかされたのだと思い込み、その思い込みに対して激しくショックを受け、激しく怒ってもいた。

―― なんやわからんけど、昨日の事根に持ってんかなぁ。ケツの穴の小さいやっちゃ。

じりじりと照りつける、夏の日差しが、川原の石の照り返してひどく暑かった。
それでもその中を昼過ぎまで待ったが、腹の虫が激しく鳴り出だしたので『マコやん君の分も』と母親が持たせてくれた大量のお好み焼きを自分ひとりでヤケ食いする。
食べている最中に彼が来たとしても、わけてなどやるものかと。いかにも子供っぽく馬鹿馬鹿しいことを考えて気を紛らせていたが、すべて平らげた後も結局彼の姿は見えなかった。
こんどは腹ごなしとばかり、服のまま川に踏み入って、水を蹴り上げ魚を脅かし遊んだが、ひと暴れした後にふと立ちつくすと、たださらさらと流れる川面の音と、いつしか鳴きはじめた(ひぐらし)の声。
かなかなと。
あたりに響くその声に、約束をすっぽかされてひとり放っておかれたという怒りは少しずつ心細さへとかわっていった。
遊びなれた川原が急にどこか知らない場所のように思えてきて。
いつの間にか傾き始めた西日に追われるように駆け戻った自分の家。
そして、そこではじめて母親に告げられたのだ。

―― なんで早よ戻って来いへんかったの、マコやん君のご両親が事故で ――

自分が川原で遊んでいる間、マコやんの身の上に何が起こったのかを理解するまでにずいぶん時間がかかった。
呆然としている俺に、それでも母親が
―― 早よう喪服に
とか
―― お通夜は夕方からやって
とか、早口で何かを言っていた。
そして俺はまわりの人間に無理やり喪服に着替えさせられ、髪を撫で付けられ、そして車に放り込まれる。
現実感のないままに連れてこられた幼馴染の家は、既に多くの人が集まっていた。
そこにいる人々は揃いも揃って神妙な顔こそしていたが、何故か悲しみと言う感情は伝わっては来ず、いつかおやじに連れて行かれた趣味の悪い蝋人形館の人形たちを思わせた。
けれどもその中にひとり。
ひとり佇む小さな影。
大人たちに囲まれて、あまりに幼い喪主が居た。
彼の表情のまた無表情に近かったが、それでも蝋人形達とは違い痛々しいまでの哀しみがそこから伝わってきた。
何一つ、かけれる声など無かった。
なす術も無く遠巻きに眺めていた俺に、彼が気付き、周囲に遠慮しながらもこちらに向ってやってくる。
そして、何を思ったのか彼はこう言ったのだ。

―― ごめん、ごめん。チャールズ。約束の場所にいけなくてごめん。

ごめん、ごめん。と謝りながら、彼はそのとき、恐らくはその日はじめての涙だったろう、ぼろぼろと泣きじゃくる。
―― ええんよ、怒ってへんから。怒ってへんから、泣かんでええ。
肩を抱いて言いながら。
心では別の言葉を言っていた。

おもいっきり、泣きや。

たぶん、彼は。
この先、こうして誰かに弱みを見せることを許されない生き方を強いられる。そんな予感がしていた。俺が少しづつ覚悟していこうとしていたものを、彼はいままさに唐突に突きつけられたのだ。
ふつふつと怒りに似たような感情が湧いてきた。
その怒りは誰に対してと言うものではなくただ、この世界と言うものは、こうも理不尽なことが起こりうるのだということに対する無意味な怒りだった。

なあ、神様。
神様っちゅうのがおるんやったら教えてくれへん?
おらんのやったら、女王陛下でもかまへんよ。
マコやんが、何したっちゅうん?
何悪いことしたっちゅうんや?
何もしてへん、何もしてへんやろ。
だったら、何で。
何で、こない惨いこと ―― 。

◇◆◇◆◇

遠い記憶を辿るうちいつしか流れていた曲は終わり、司会者がゲストとにぎやかなトークを繰り広げていた。
大人になるということは、自分があの頃思っていたほどに大きな変化をもたらすものではなかったと、彼は感じている。
それとも、自分はまだまだ若造の序の口で、このさき十年、二十年と生きるうち、その感慨は変化していくものなのだろうか。
ただひとつだけ、あの頃にはわからなかったが今の彼にならならわかることがあった。

―― 『何で』なんか。きっと女王陛下かて知らへんのやろな、っちゅうことや。

彼はうるさく感じ始めた番組のスイッチを切り、すっかり暗くなった道を走らせる。
雨に濡れた舗装路に、街路灯の光が滲んで流れてゆく。
静かになった車内で、彼は再び歌を口ずさんだ。

―― 夜が訪れて
―― 世界が暗くなっても
―― 月明かりしか見えなくなっても
―― 何も恐くはない
―― そうさ、恐くない
―― 僕等が一緒にいれば

高速を降り、しばらく行った先に目的の家はある。
雨の中、林に囲まれたその道は月明かりどころか何も無い。ただ、己のライトだけが行き先を照らしていたが、ゆるい曲がり道の先、ふいに見えてきた館の門の明かり。
心細く思っていたわけでもなかったのに、安心した己に彼は少しだけ照れる。
門をくぐってからも広い敷地は続いており、しばらく行った先にようやく館の全貌が見えてくる。ポートに進めて乗り物から降りると、係りのものがすぐに出てきたので彼は鍵を渡した。
奥から、もうひとり人影が現れて彼を迎える。
「お久しぶりです、チャールズ様」
昔見覚えの在るこの館の執事だった。
久しぶりも久しぶり、こうして直接会うのは件の通夜以来だからもう十三年ぶりという計算になる。
「おっちゃん、久しぶりやなぁ」
言ったチャールズに、無愛想な印象のある老執事は相変わらずのようですな、と僅かに相好を崩した。
館の主 ―― 当然マックニコル ―― の部屋へと案内しながら、老執事が複雑そうな顔をして呟いた。
「このようなことを申し上げてはいけないのはわかっていますが。―― 残念です」
それは、きっと、古い友人との別れを前にした彼の主人への思いやり故の言葉だったのだろう。
チャーリーは内心はともかく陽気に肩をすくめる。
「以前、マコやんに約束させられてん。地獄の果てまで友達や、ゆうて。地獄に比べたら、俺がこれから行くトコなん、近こうて笑ってしまうわ」
さようですか、と。
彼は少しだけ口の端を上げて微笑んだ。
「しゃーないなぁ。しかし、マコやん、俺のこと友達とかいうわりに、いまだ『チャーリー』ゆうて呼んでくれたことあらへんのや。なんでやろ?」
既に共に成人した身であれば、今更家の職業がライバルだのなんだのという理由はあほらしい、と彼は思っている。
老執事は思い当たることがあったようで、ああそれは、と語り始める。
「いまは亡き旦那様と、奥様が、よくマックニコル様に言っていたことですから」
チャーリーは、昔感じた胸の痛みをちくりと感じる。
―― なんや、やっぱそういう理由なん?
けれども、その次に聞こえてきた言葉は、彼の解釈とは全く違うものだった。

「お二人はよく言っておられました。
『友人でありたい人こそ、きちんと名前を呼びなさい、そして信じて欲しい人の言葉こそ、疑わずに信じなさい』と。マックニコル様はきっと、そのお言葉を忠実に守っておられる。そういうことなのだと、僭越ながら」

チャーリーの脳裏に、古い、友人の言葉が浮かんだ。
―― 僕はね、チャールズ、君のことをチャーリーとは呼ばないし、君の言う言葉を嘘だと思うこともきっと無い。でもそれには、ちゃんと理由がある。
急に熱くなった目頭を軽く抑えて。でも何か冗談でも言って茶化したいと彼は言葉を探したが相応しい言葉は結局見つからなかった。
「そう、やったんか」
「はい」
執事は頷いて、そしてもうひとつ、と言った。
「もうひとつ、あるのです。『いつまでも絆を失いたくないのなら』」
と、そのとき。向っていた部屋の扉が開き、その主が姿を現した。
「あまり余計なことを言うな」
ひとこと、老執事に向い言った彼は、今度はチャーリーに向き直りいつものモニタ越しとかわらぬ風情で挨拶する。

「久しぶりだな。チャールズ」

昨日モニタ越しに会ったばかりの彼であるから、何が久しぶりなもんか、と突っ込みを入れながら、マックニコルが呼んだ名がチャールズ・ウォンでないことに気がつく。
そして、もう自分はそう呼ばれる必要もないのだと、彼は少しだけさびしく思いつつ、十三年前のあの頃に一気に舞い戻ったような嬉しさも感じていた。

◇◆◇◆◇

招き入れられた部屋の中、彼はソファーにどっかと座り、手にした葡萄酒の瓶を見せた。
本当なら、こうして顔を合わせたのは十三年振りであるのだからそれなりの挨拶や会話と言うものがあるのかもしれないが、何故か自分たちにはそれは相応しくないような、必要無いような、そんな感覚で彼はいる。
「酒、もってきたでー。マコやん。あんな、そんじょそこらの酒とは違うで」
ワイングラスを用意しながら、マックニコルはいぶかしげな表情をした。
チャーリーの立場であれば、世界でひとつしかないような年代の葡萄酒とて入手することができるだろう。そしてそれはマックニコルとて同じことだ。その彼が、そんじょそこらの酒とは違うというのだから、いったいどれほどのものなのか。
「詳しいことはな、言えへんのやけど。ほら、以前ジェムストーンがらみで騒ぎがあったやろ?あれのお礼にな、ある方から貰ろうてん。あ、マコやんも見たことあるはずやで、女と間違うとったな」
「ああ、あの ―― 」
複雑にも苦い顔をした友人を見やって笑ってから、彼はコルクを抜いた。
あたりに漂う、馥郁とした香り。
「大事にな、とって置こうおもったんやけど。飲むなら今やろなぁ、ってな。それに向こう行ったら、ご相伴に預かれるかも知れへんし」
グラスに注がれてゆく、美しい液体。
揺れていた表面が、しばしの沈黙の後に水平になる。
「さ、乾杯や」
「何にだ」
「なんやろな?」
言いながら、やはりこれは別れに、だろうかとチャーリーは思ったが、先にマックニコルがこう言った。

「では、十三年ぶりの再会に」

黙って頷き、チャーリーは彼の掲げたグラスに、自分のグラスをかちりと合わせた。
そのあとは、会話すらほとんどないまま、時間が過ぎてゆく。
語りたいことは山ほどあるようでいて、実際別れを前に限られた時間で語ろうと思えば、本当に語りたいことなど殆どなかった。そして、これでいいのだろうと、彼は思う。
ただひとつだけ、チャーリーの中に引っかかりがある。
窓を打つ、さっきよりも強くなった雨音に混じり少年の日の、彼自身の声が耳に聞こえた。

―― かんにんな。かんにんな、マコやん。

ゆらゆらと、手の中で揺れる赤い液体を眺めるうち、彼の意識は再び十三年前の夏の日にもどっていた。

◇◆◇◆◇

そのあとしばらくはマコやんの家では告別式やらなんやらでおおわらわであったはずなのだが、各界の大物が出席するその場は、がきんちょの俺が顔を出す幕でもなかった。
もっとも、親父あたりはだからこそこの機会に顔を出してみろと無神経なことを言いもしたが、本気で怒鳴りつけた俺の様子をみて、それ以上友人の不幸を利用することを息子に強いるようなことはしなかった。
そんな理由でずっと音沙汰のないままだったマコやんから、連絡があったと告げられたのは、突然の悲劇から二週間ほどが過ぎた頃だった。
偶然家を空けていた俺に渡された伝言にはこうあった。


チャールズ、このあいだは約束の場所にいけなくてごめん。
もう冒険はむりかもしれないけど明日、いつもの広場で待ってる。

―― マックニコル・セティンバー。

マコやんのことが、気になっていた。
元気でいるだろうか、少しは落ち着いたろうか、そして、この先どうするつもりなんだろうか。
親身になって話したい事は山とあった。すぐにでも側に行って、あいつの話を聞いてやりたいと、そう思っていた。
だから、伝言の紙を握り締め、マコやんに会いに行ってくる、と言って急いで玄関に向ったそのとき。

―― 丁度いい、セティンバーの内情を聞いて来い。

何かの用事で家に来ていた親戚の誰かがすれ違いざま言ったその言葉に、俺は体中の血管が千切れるほどに怒りを覚え、そして己の周囲にそんな人間がいることを激しく恥じた。
感情のままに俺はそいつをぼこぼこにぶん殴り、結果、その日一日の自室での謹慎を申し渡されたのだ。
窓の外に、雨が降り始めていた。
夏が、終わろうとしている。
そう思った。
そしてその雨を眺めながら、マコやんには申し訳ないけれど、後日また会いに行けばいいとその程度に考えていた。
あいつだって、この雨の中そんないつまでも俺を待っているようなことはしないだろうし、そのときの激しい苛立ちのまま友人に会いにいくのは忍びなかったのだ。
部屋の中で、何時間かふてくされて転がっていると、微かに扉を叩く音が聞こえた。
―― 兄いちゃん、聞こえてる?
妹の声だった。
家の者たちに聞こえないように、小さな声で、彼女は言った。
―― マコやん、遠くの親戚んちに行くんやて。今日の夕方、行ってしまうんよ。兄いちゃん、会いに行かへんで、ええの?
飛び起きて、俺は扉を開けた。あまりに勢いよく開けすぎて、妹が鼻をぶつけて痛がっていたが、そんなことは気にしていられなかった。
―― 痛い、兄いちゃん。これ以上鼻低うなって、嫁の貰い手のうなったら、どうしてくれるん。
―― マコやんにでも、貰ろうてもらい。
言いながら、俺は既に玄関に向かい走っている。
―― そんなん、嫌やー。
という真っ赤になった妹の叫び声と、親父の怒鳴り声を背に。
俺は、雨の中を飛び出した。

―― どうか、マコやん、待っとって。今いくさかい。

走りながら、そう祈った。
ひたすら走り祈り、ひたすら祈り、走った。
夏の終わりのぬるい雨が、体をぬらしていった。顔を伝う水滴は、汗なのか、雨なのか、それとも涙なのか。
既に俺にはわからなかった。
そして。
たどり着いた約束の場所に、既に彼の姿は無かったのだ。
雨の中でひとり、ぎりぎりまで友人を待っている彼の姿がありありと浮かんだ。
そう、きっと。
彼は、ぎりぎりまで俺を待っていてくれたに違いないのだ。
そして、俺は気がついた。涙で滲んで、ぼやけた視界の隅。
夏に涼しい木陰を作る、いつも昼寝していた大樹の下。
しっかりと刻まれた文字が、けれども一層強くなった雨に流れて消えかけている。
それは、こう読めた。

『またあおうね、チャールズ』

―― かんにんな。かんにんな、マコやん。
俺はただ、そう言って泣くことしかできなかった。
その涙は、来ることのできなかった愚かな己と、そのきっかけを作った愚かな周囲の大人と。そして、いつか、さして遠くもない未来に自分もそんな大人になるであろうことへの、謝罪の涙だった。

◇◆◇◆◇


「あんときのこと、かんにんな。マコやん」

あんとき、とは何時のことなのか。言わぬまま呟いたチャーリーに、マックニコルは
「べつにいいさ」
とだけ、応じた。
不意に、涙が滲む。
それに気づいたのか、マックニコルがもう一度言った。
「べつに、怒ってはいない。だから、泣くな」
それは、かつて、チャールズがマックニコルに向って言った言葉と同じだった。
「泣くかいな、あほ」
「ふん、そうか」
そう言って彼の友人は黙った。
チャーリーは立ち上がり、きつく閉ざされた窓に歩み寄った。
ブラインドを上げようとして、ふと思い出し、あけてもええか、と友人に尋ねる。
彼はやはり、黙って頷いた。
窓を開けると星空が見えていた。
友人にとって、どれだけしばらくぶりの星空なのか、とチャーリーは思ったが、マックニコルは特に感慨深げも無く言った。

「雨がやんだな」
「ああ、せやな」

雨上がりの冷えた空気は、これ以上なく澄んでいた。
思いっきり吸い込むと、はながつんとして、チャーリーはひとつ、くしゃみをする。
鼻をすすっていると、もう一度、マックニコルが言った。
「泣くな、チャールズ」
「…… アホ」

のっそりと窓辺に来た友人と二人、星空を見上げて、彼は思う。
あの夏、唯のチャーリーであれる時間はもうおしまいだと思っていが、今ここにいる自分は、間違いなく唯のチャーリーだった。
今日見上げた星空は、あの日できなかった冒険の続きだ。
弁当を持って、歩き疲れるまで川の上流を目指し、そしてその先で、きっと自分たちは、この星空を見つけたに違いない、と。
この先、これまでの自分を捨てて、行かなければいけない場所があることも、あの頃と同じだ。
この広い宇宙の下のちっぽけなかつての少年たちが今。
あんぐりと口を開けて、瞬く星空を見上げている。
不安が無いといったら嘘だ。
寂しさが無いといったら嘘だ。
けれども。

―― 何も恐くはない
―― そうさ、恐くない
―― 僕等が一緒にいれば

そこで、思わず例の歌を脳裏に思い浮かべ、流石にそれはクサいかと、彼は苦笑いする。マックニコルはそんな彼を怪訝そうな目で見た。
もう、夜も更けていた。そろそろ別れの挨拶を、しなければいけないとチャールズは思ったが、なかなか相応しい言葉が出ずに、こう言った。

「あれやなぁ。さいならとか、バイバイとか。
いままであんまりおもわへんかったけど、けっこう切ない言葉やねんな」
マックニコルは少しだけ眉の根を寄せたが、以外に淡々と応じた。
「なら、言わないでおけばいい」
「…… せやな」

そして、ふと。チャールズは先ほど老執事が言いかけた言葉を思い出す。
『いつまでも絆を失いたくないのなら』
そして、これまで。
別れ際、マックニコルは決して『さよなら』という言葉を使ったことがなかったのではないか。
チャールズが気付いたことに彼もまた、気付いたのかもしれない。
僅かに笑んで、だから別れの挨拶はこれでいい、と彼は言った。

「―― また会おう、チャールズ」

◇◆◇◆◇

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【追記】
2009年にこの話の続編を書きました→「あの日の冒険の続きを」「鼻と手袋と靴底と」
【追記ここまで】

てか。これ、本当にマコやんかよ?!

10万HIT記念リクエストラリー第二弾。
「就任前夜にマコやんと酒を酌み交わし、幼い頃の話をするチャーリー」
でございます。
如何でしたでしょうか(笑)
※ブログとは別のところでリクエストを頂きました。


この話は私のなかの位置づけではクラ&ジュリで書いた「少年時」のチャー&マコバージョンのようなものです。
どこかすれ違いながら、それでも遠くにいても費えることのない絆。
そんな友愛が大好物で。
最近ハマってしまったティムカとカムランの兄弟愛もニュアンスとしてはそれに近いのだとおもいます。

2005/11/07 佳月 BGM:Stand By Me/Time to say Gooby