このページのポリシーは常に「つれづれ」である。 気の赴くままに、また、気がついたことをそのまま、 書くというものである。 ちなみに右の満面の笑みはその記述に対する意欲を体現しているという 解釈をお願いしたいが、本当は違うという説もある。
ある信頼ある情報源から「タミヤ」というキーワードで偶然次のようなページを みつけた: Modeling life demo . 内容としては筆者のプラモデル作りを中心とした日記なのであるが ほかにFreeBSDの導入についてのないようもちりばめられている。 その中になぜかうちのWeb pageがリンクされたので驚いた(一番したの部分)。 それはなにかというと、 グロイザーXのページである。 おそらくは模型関係の キーワードをちりばめて全文検索エンジンで検索したのであろう。 長いページはそれだけ引っかかりやすくなる・・それを証明したような できごとであった。 日付を見ればもう一年ぐらい前の記事である。 多分書いた本人も忘れているのだろうが、 まあそれほど悪い気がしないが・・、ちょっとは知らせて欲しいものだ。
ソラリスなるOS上での漢字変換をネットスケープで行っていた。
自分の名前「かわかつ」を変換しようと
ローマ字でそううったあとおもむろにcrtl+wをおしたところ・・
とんでもない文字が登場したのである。
渡辺篤史の声はよい。きいていて聞きほれてしまう。
この声で家を褒めちぎられまくったら僕はその家がどんなにぼろでも
御殿のような気がするに違いないといってしまえるほど
(実際はそうでなかろう)にその声は妙な説得力をもっている
ように感じるのである。
どこかで書いたかもしれないが下宿のテレビが壊れてしまってそのままである。
しかしテレビ放送の音だけは聞くことができるのだ。
というのはビデオはつぶれているわけではないのでそこから
音がとれるのである。
最近はテレビを耳で聞くということが多い。
ラジオを聞けという話もあるのだが同じ音だけでも
結構すみわけができているようでテレビ的な番組というのに触れたいので
ある。
もちろん放送のないようの傾向が違うという以上に
テレビ放送は画像に頼っているがゆえに音だけでは
なかなかつらいときもいくつかある。
たとえば、ニュース速報である。ニュース速報はそれが表示される
ということを音で知らしてくれるが決して音で知らせてくれない。
だから僕の下宿では「ぴーぴぴぴぴーぴー」という音を聞いて
「ああ、なんかすごい事件が起こったんやな。」という抽象的な
状況しかしるよしもない。
またニュース番組などで
外国の高官が喋っているのを英語もそうだがあらゆる言語そのままで
放送されるることが結構ある。
もちろん画像においてはその逐次訳が表示されているのだろうが
画像をかっとされているわが下宿ではそれを見る手段もない。
しかしテレビが生きていたときもその画面の小ささゆえ
字幕が読めなかったということも多かったからその事情はあまり
かわっていないが。
まあともかくそう言う事情でテレビ放送を音のみで聞くということが
多くなった。
音だけできくからといってその視聴の嗜好(現在では聴取のそれ)が
かわるという
ことはない。ドキュメント番組は好きな番組のカテゴリーのひとつであった
が音のみのテレビにおいてもかわっていないのである。
この手の番組はテレビ局が最も力を入れている時間帯によく特別番組
として投入されることが多いのであるがその時間はいろいろな
テレビ局が力を入れている番組群がひしめいているので
相対的な優先度が低くなって見逃してしまう番組も多い。
しかしその中のドキュメント番組はたまに土曜日の昼間などに
再放送してくれるのである。土曜日の昼間というのは放送局のほうも
それほど気合を入れてやっていることは少なく再放送でお茶を濁している
事が多い。だがかえってそれが自分にドキュメント番組を視聴させてくれる
チャンスを増やしてくれているのである。
そこでであったのが渡辺篤史であった。
その角のたたないやさしい声でしかししっかりと送り出されるナレーションは
われわれをそのドキュメントの現場にひきづりだしていっしょに応援させる
という演出力を感じるのである。
森本レオもなかなかな味がある。その声はやさしく、心に容易に入ってくる
ものである。しかしその
ナレーションはが緊急事態をレポートするには
むかない。どちらかといえば10年単位のナレーションが似合っている。
あるいは牧歌的なゆったりとした事柄のレポートが似合っている。
緊急事態ならば矢島正明という選択肢もあるかもしれないが
これはハッピーエンドが
期待できないという情報を付加されているような気がしてしまう。
どうしても未解決な部分が後に残っているぞ。という残り香を感じて
しまうのである。
彼は日曜日の朝にさまざまな住宅を紹介する番組をもっているらしい。
きくところによればそこに登場する住宅には悪いものがないのである。
それは住宅を選んでいるのではなく、渡辺篤史リポーターの力の
ためである。悪い住宅と思われるところでも一様に悪い住宅というもの
はない。どこかに目を皿のようにして探せばよいところがあるのである。
それを発見して彼の声に乗せればそれはすごいよいことのように聞こえてしまう
のだろう。彼の声はそれをおこなえる魔力がある。
そう言えば昔に特捜最前線に出ていたことがあったが
期間が短かったせいかもしれないがぜんぜん印象が残っていない。
演技というよりは声の人なのだろう。なにかをお伝えするときにその
能力は最大限に発揮されるのである。
今日は何かあると思っていた。 ついにUFOを発見したのである。 それも周期的に点滅するものである。 飛行機のそれとは明らかに違う。独特ものなのだ。。 とおもって窓をじっくり見ていたがふと視線をずらすと UFOは消えた。そのまどにはブラインドがついているのだが その一枚の板に地上から発せられている光が反射しているだけ だったのである。。 なるほど、世の中UFOがわんさかあるという事実を知った体験であった。
先日、少々こっそり見なくてはいけない本をちらちら みているとその登場人物として 「則利」「孝利」という名前 の親子がいた。内容が内容だけに何じゃそりゃ! といわずにおれないものであった。
今日あるひとに是非に飲んでくれと進められた飲料を 早速コンビニにて購入してきた。 「意地悪な一部のコンビニにおいては置いていないに違いない」という ことであったが最も近い24時間コンビニにて即座に発見する ことができたのである。 それはなにか?題名から推測されるように サイダーの黄色いやつである。 その名も「イエローサイダー」という代物である・・。 なんとなくその響きは懐かしいものがあった。それはなぜかすぐには わからなかったがしばらく考えたら思い出した。 それは「イエローライナー」である。 7,8年前ぐらいだろうか。実家の近所に走っているJR福知山線の 通勤型の電車の色は黄色であった。 それまではただの黄色の電車であったのだが突然前触れもなく 愛称がついたのである。イエローライナー。 しかもそれを知ったのは電車の一番前に掲げられていた看板 によってだったのだ。 その素人作りの看板にいたく感動したとともに 大きな衝撃を受けたものである。 それからその愛称がなかったものにされるのは1年ほど経ったころであろうか。 まるでそんなことは一切知らぬとでもいわんばかりに すっかり看板がなくなってしまっていたのである・・。 なぜかそのことがフラッシュバックしたわけであるが なにかを暗示させるような出来事ではあった。 しかし、それにしては普通のデザインのジュースである。 「三ツ矢イエローソーダ」という名前であった。 果汁2%。。そしてその果汁の正体は下のほうにこっそりかかれていた。 バナナである。バナナのソーダであるというのだ。 バナナの飲料というのはたからの朝CANなるものがあったが それは個人的には非常に気に入っていた。しかしほかにあまり「よい」 といった人はいないのである。。今回のやつはそれの炭酸バージョン なのである。しかし果汁が二%というのが怪しい。 少なすぎてその味がどうなるのかが予測不可能であった。 そのコンビニで買ってみたがすぐに飲まずにほかの買い物をしてから 下宿でゆっくり飲むことにしたのであった。 ・・・・中途半端である。ソーダなのであるが妙に薄いバナナの味が どうも足を引っ張っているとしか思えなかった。 しかし、飲むことはできたぞ。そのあと多少気分は悪くなったが・・。 ジュースが原因かは微妙なところである。
京都の市バスで東山通りの祇園付近を北に進んでいたとき 道端にあったある駐車場の看板が目に入った。 それは派手に一昔のパチンコ屋のごとくの 点滅する電球の入ったものであった。 しかし・・それはそれがもつもともとの能力ほどは目立つものではなかった。 それどころか、物寂しげな雰囲気さえ漂わせているのだ。 それはなぜか。それは・・ その点滅が実に物寂しげだったのである。 それはなぜかというと・・看板に装備されている電球のほとんどが たまが切れてしまっていてたったひとつだけしか点滅してなかったのである。
某県のレタスの商品で「らりるれレタス」というのがあった。 いっしゅんうまくいっているような気はするが・・ 「れレ」というのがやはりつらい。語呂が悪いことには違いないのである。 残念ながらオ行に最初の文字がなかったためにこう語呂が悪いのであるが なぜこのしゃれを採用したのかがなぞである。 恐らくその決定過程に推敲というのは敢えて排除されているに違いない。 (ここの文章もってか?ほっといてほしい。)
10000円で買った電子レンジは韓国製であった。 もちろんそれは日本向け仕様になっており すべての記述は日本語表記になっていたが 付属の料理ブックの調子がおかしい。 何がおかしいかといえばなんとなくそのフォントが見慣れない感じなのである。 IBMの製品の契約書のような印象を受けた。 これはもしや・・と思いそのページをくってみると やはり少々日本語の表記としてはおかしいところがあった。 しかし、それはほんのわずかである。 たとえば「サービス」と書くべきところを「サビス」 と書いているところがあった。うむ・・しかしこれぐらいしか見つからない。 さすがにグアムのみやげ物のようには頻発しないものである。 しかし、最高のヒット商品があった。 「セット」と書くべきところを「セシト」 という表記があったである・・。うむ、すばらしい。
今日は電子レンジを購入した。ほぼ10000円である。 もちろん単機能である。出力の切り替えとタイマーだけが ついている。 見た目は軽そうに見えたのであるがもってみると ずいぶんと重い。そういえば店の人が「車でおもち帰りですね」と 聞いたのを不思議に思ったのであるが持ってみてなるほどと思った。 このレンジは 値段が安いゆえに単機能であったのだが 単機能であることは何も悪いことばかりではない。 単機能ゆえに最近のものには見られない特徴があるのだ。 それはなにかといえば「チーン」なる音である。 やはりレンジで温めることを「チンする」というようにこの音が 電子レンジの基本に違いないと思っている。 思わぬところでこれが聞けるようになったというのは実に喜ばしいことであった。
かつくらのついでに円山公園で午後を過ごしてみた。 景色を見てみれば桜はずいぶん葉っぱになってしまっていたが、 それでも3割ほどに木にはまだ桜の花が見られる。 その桜を惜しむかのように公園内にはたくさんの青のビニールシートがしかれ 宴の準備をしているようであった。 店もこの日のために全開しており店の前のいすには家族づれやカップルが たくさん見られていた。僕自身は当然一人でそこに来たわけで その範疇には入らないのであるがその風景雰囲気というのはじっと下宿で テレビを見たりしているよりずいぶんと気持ちがよいものであった。 気になったことといえば次のことだろう。
某チャットで会話しているときにSなる人物から教わったとんかつ屋がこれである。 かれは「きゃべつがうまい」と言うことでこの店を教えてくれた。 彼のこだわりはなんとなくではあるが深く感じていたので ものすごく入り組んだところにある店かと思ったのだがそうでもなかった。 三条河原町から寺町方面に三条名店街を歩きながら北の店をみていくと LIPTONの店がある。その並びにとんかつや「かつくら」の入り口が見つかるという あっけなさであった。しかし入ってみると京都ならではのように 入り口がずいぶん奥にあってやはり「奥深い」店だと思わせるところがあった。 入ってみると午後も3時だというのにずいぶん賑わっていた。 やはり日曜日の午後だからだろうか。平日の午後であればこうもいかないであろう。 しかし一人だったのでちょこちょこあった空き席にすばやく座り込むことができた。 とんかつ屋ということでとにかく一番基本の「とんかつ膳」を 注文した。グラム数は120グラムのやつである。(税抜きで980円) 最初のごまを出されてまっている間に「すりなされ」といわれる。 それをしばらくすっていると次に出てきたのはおひつと茶碗である。 「これだけは安心してお代わりなされい」というところである。 おひつをあけてみると麦飯であった。ご飯に混じって真中に黒い線が入った 麦が混じっておる。ずいぶん久しぶりに見る食い物である。 まだ主賓がでてきていないが漬物をあることであったし腹も減っていたので ついついフライングしてしまった。しかしフライングといっても禁止されている 事項ではないので別にかまわないのであるがやはりすべてがそろってから 食べるべきものであろう・・。 続いて主賓の皿がやってきた。とんかつとキャベツである。 食いしん坊の店というところでよくとんかつを食うのであるが そこのキャベツも結構多いのであるがさすがにここには及ばない。 ずいぶん大量に入れてくれる。しかし細かい切り方で且つみずみずしそうなので いくらでも食えそうな気がする。とんかつは鉄の網の上にのっていた。 これは余分な油がとんかつのしたにへばりつくのを防いでいるのであろうか。 実に気持ちのよい配慮には違いない。 みるととんかつは思ったほどの量には感じられなかった。 すぐに食べてしまえる量に思えたのである。 味噌汁がやってきたので早速食べ始めてみた。 すでにメシは2杯目に入っている。キャベツをおかずにしてどんどん メシも進む。そうなるととんかつは思ったほど進まないことに気づくのだ。 キャベツがおいしい分とんかつが長く持つ。 実においしいとんかつ定食であった。 結局キャベツと味噌汁をお代わりするほどの食べてしまったのだ。 うちで食うキャベツでは味わえぬ感覚、これはどこからくるのだろう。 きり方が細かいことだけからくるとは思えない。やはりキャベツがよいのだろうか? <それを検証するためにすごく細かく切って食べてみるか。
京都の縦横に比較的整然と並んでいる道に慣れてみると
どうも自分の下宿の近所に走っているような斜めの道が
変な感じがするのであるが逆にもともとの道であることがあるから
注意が必要である。
その注意が必要なことをあらわすかのように今まで気がつかなかったことを
その道において発見することになる。
その道というのは京大をはさんでつながっていないが
地図を見ていると明らかに続きであると思わせる道である。
京大から北のほうは志賀越え道といわれている道であるが
こちら側の道はどう呼ばれているのだろうか。便宜上志賀越え道と呼んでおこう。
実際昔は(京大のところに屋敷ができる前)しっかりつながっていたらしい。
(そういえば分断されているのに同じ名前の道というのが実家のある尼崎
にもあった。こちらのほうは逆に将来つながる予定の道なのであるが・・
<山手幹線・大庄武庫線>)
しかし、これからする話はこれとはほとんど関係ない。
気がつかなかったのが不思議だということの言い訳に使っているだけである。
それでは何を発見したのか?
「バビット:BABBIT」
なる看板である。何かの小さな会社の看板なのであるが
やはりその名前のつけ方が気になるところのである。
いつ作った会社なのかが気になるところなのであるが、それはまだ定かではない。
それより古ければすばらしい偶然であるが、
同じ時期かそれより後であれば・・そのインスピレーションをどこから得たのか、
あるいはぱくったのか?気ににあるところである。
最近KBS京都で放映している「遠山の金さん2」(pm1時から1時間) は高橋秀樹主演のものであるが残念ながら 以前書いた記述は 当てはまらないようである。 (以前の記述とは、金さんの桜吹雪の絵が描かれる部分の端にある 乳首をうまく調和させることができずに妙に気になる形で 浮かび上がらせているのではないかという説である。) というのは彼の乳首は見事に 桜吹雪に調和するかのように埋没してしまっていたのである。 もしかしたらうちのテレビがあまりにも画面が小さいがために それが確認できなかったのかもしれないがそれでもいま大老 井伊直弼役でその名演技を見せている 杉良太郎の それを大写しにしたような乳首は映し出されていなかったのは確かである。 高橋秀樹バージョンがなんとなく浮いて感じられるのは 妙な手ぬぐいのアクションだけでなくこう言うところにも原因があったの かもしれない。
大老といえば まったく関係ないが最近僕の人差し指に 大老というあだ名がつけられた。とりあえず報告をしておく。
某人が近くのY市場に買い物を行ったときの話である。 いろいろと夕飯の材料を買った後 雑貨屋で水切りを買おうとした。 「水切りください。」と店主のじいさんに言ったところ 「どんなのがいいかなあ。」といいつつ棚から 探しただしたのは丸い形の水はりであった。 「違います、水切りがほしいんです。」 といってもう一度探しなおしてもらうように頼んだが、 ちょっと困った顔をしてもう一度棚を見始めた。 もたもたしているので自ら棚にあった四角い水切りを とって「これください」といったがしばらくはそれに気がつかないように まだ目が泳いでいた。その後やっと気がついたようで 「あ、はいはい。これですね」と応対してくれたのである。 某人はその水きりに加えてそれを覆うふたも買いたかったため そのじいさんにそのふたもほしい旨を伝えると じいさんはそれを探そうとするがどうもおぼつかない。 それを見かねてふたのありかについてのヒントを与えたのは 某人ではなくじいさんの奥さんであった。が「ほれほれおじいさん、 水はりちゅうたら丸いやつやろ」ととんでもない的外れなことを言ったのである。 水切りを取っているはずというのにまだ水はりといっている上に その形状も四角でなくて丸いものであるというのである。 じいさんはその言葉に引きづられて「なるほど、そうやのう」といって 丸いふたを探し出す始末である。 もしかして奥さんは某人の求めている水切りの形を見ていないのかもしれないが それでもその言葉をそのまま受け取ってしまうじいさんもじいさんである。 まさに自分が手にとって渡したはずの四角い水切りの映像は頭に残っていないのか? しっかりして欲しいものですのう、などとまじめに起こる気力よりは 笑い話にしてやらないとそのやるせなさが癒せないと思う気持ちのほうが 強くなったのは致し方ないだろう。 そんな気持ちに浸りながら自ら水切りに合うふたを見つけ出す某人であった。
暴れん坊将軍が平日の2時から再放送しているのだが
たまたまそれを見たとき妙に心に残った部分があった。
今ごろは**も三途の川を渡っているころでしょう。ひひひ。
などと屋敷で歓談する悪者がいるところに、
悪巧みの顔ぶれが、勢ぞろいか。
とエコーがかった声が天から響くのである。
今まで知らなかったわけではないが改めてはっとさせられた。
未確認情報であるが最近北部生協のグリルコーナーに 「手丼」のメニューが再び現れたとの事である。 ぜひそこのおばちゃんに「テドン」と告げてみたいものである。
最近研究室の周辺の風景として 思い出して読みなおしてみればどうもおかしいというものが いくつかあったが、ある意味それに近いことが 新たに見つかった。ただし、今回のものは風景という形ではなくて 歌詞という形で現れた。しかしここで一つ問題がある。 それはそれが「歌詞」であることである。 つまりまともに紹介できないのである。 しかしそれを何とか使えることを目的としてこの記事を書いているのだ。 何とかしてつたえようと思う。 元の歌はそう、北欧の海で6世紀ごろに暴れていた人たちを題材に 黄金の大陸、および、大航海時代を混ぜ込んで、男の生き様を歌った 歌なのであるがこの部分が現れるのはその3番である。 意味としては、 この大海原は自らが思えばいくらでも自由に活動できる 広い世界でしかも自らの味方になってくれるに違いない、といった意味を表し たいのであるが、どうもなにか抜けているのである。 抜けてる部分を書いてみよう。 「俺たち」と「仲間」の間に 「の行く手に阻む敵でもあるが実は俺たちの味方になってくれる」 といったことを補ってやると多少通りがよくなる。 逆にそういうつながりがよいつなぎの言葉をすぱっと抜かしているために どうも歌に集中することを忘れたくなるほどに気になるのである。 ・・・・ううむ、結局なにも伝わらないではないか・・。 歌詞を出さずに雰囲気を出すのはなんとも難しいことである。
日曜日の午後、大抵の人はテレビの前からはなれて お出かけしようと思う時間であるが その直前まだ飯の続きをしている人もいくらかいる時間が 午後1時という時間である。その昔 大阪の4チャンネルではこの時間に再放送ではない 番組をやっていた。(今は実は良く知らない。 僕は裏番組の新婚さんいらっしゃいとアタック25を楽しんでいる。) その中で異色の番組があった(異臭というべきかも知れない)。 それが「しあわせヤッホー」である。 司会、というか「教祖」という立場のぼんちおさむ、 女性アシスタント(名前忘れた。)、 青野敏行(ポテトフライ)、あとはわすれてしまったが その出演者の面々からもなんとなくよごれた感じを受ける番組であるが まったくそれを裏切らない出来栄えであった。 ただ、あまりも裏切らなかったために見ている方が見てられない状態に 追い込まれることがしばしばあったのである。 番組の1コーナーであらゆることを供養するという趣旨の 「シャーロックヨウムズ」というものの名付け方 からはじまって、司会者のそのまとめる力のなさから来る 頻繁に存在する視聴者が耐えられない間まで実に「魅力溢れる」 番組であったのだ。 もう2度とは見られない特殊な番組であったにちがいない。 その「魅力」ゆえに2カ月という中途半端な時期でうちきりになってしまった が、たまに見たくなる衝動にかられてしまうのはなぜだろう。 もし「ヤッホー」のうちわを保存している人がいたら 是非保存しておくことをお勧めする。きっと何かの役に立つはずだ。(?)
最近ある人との話の中で浮上してきた問題がこれである。
遠山の金さんといえば桜吹雪である。
話の中ではそれを披露する機会が2回ある。
ひとつは「遊び人金さん」としての「金さんの桜吹雪」、
もう一つは北町奉行遠山さえもんのじょうとしての
「遠山桜」である。
それぞれ全面に出す身分は違うにせよ
同じイレズミであることは間違いない。
同じゆえにこの問題もどちらでも確認できるのである。
その問題とは何か。
それは桜吹雪の位置に関係する。
桜吹雪は肩から胸の位置に描かれているのであるが
肩を着流しからあらわにして露出する部分を含むように
描かれている。その露出した部分にはもっともしたの部分に
誰が遠山の金さんをやってもちくびが見えてしまうのである。
当然桜吹雪もそれを考慮せねばならない。
しかし、桜吹雪をそのちくびがとけこむように描くという技術が
確立されていないと見えてそこをちょうど避けるように描かれている
のであった。
桜吹雪の絵は見事なのであるがその避けている部分が何か無理に
かかれているような気がすることとち首自体が目立つ部分なので
ついつい桜吹雪自体を見る前にちらっとそのちくびの方に注目してしまう
のである。
結構この事実は多くの人に適用できることではあるまいか。
ちなみに、誰のちくびが印象であるかというのは
ちくび独自のイメージではなく演じている俳優
(中村梅の介、杉良太郎、高橋英樹、松方弘樹などなど)
のイメージから決まるようである。
(1998/4/11)高橋秀樹の金さん情報はここ。
卒業そして入学のシーズンである。 生協で食事をしたのであるが、そのテーブルに生協が 組合員の食生活にやくに立つ情報を 書いた紙をたてている。 その内容はいたって平凡で 「卒業して社会人になってからよい食生活を意識的におくろう」 というものであったが、その内容が気になったわけではない。 そのメインの記述の部分ではなくはと目にとまったのは 右下に書かれていた数字であった。
昨日の研究室での談義のなかで米を炊くことに関する もろもろのことが話題に上った。 その中で特に注目された話題が「米の研ぎ方」に関するものである。 ついで「飯をすべて取り出した後の処理」も注目された。 前者についてであるが その話を最初に言い出した僕が「これは誰もが大体同じやり方をしているだろう」 とおもって自分流の米の研ぎ方を身振りで表してみると 同席していた参加者から異論が噴出したのである。 Kは「指三本ですよ〜」といいながらいかにも手を水にぬらしたくはないがごとくに かまのような形を指3本で作りその形を崩さないままに米をかき混ぜるという。 もう一人のKは、さきほどのKの不精をもう少し崩した程度のそれであって、 指は5本すべて使い 多少その形に柔軟性を帯びさせてまぜるという。 またTさんは片手で器を支えながらもう一方の手で米を握るように洗うという。 Cさんはあぐねすちゃんの祈るように両手を擦りあわせる手の間に米を入れて どくという特殊なやり方を紹介してたが実際自らがどうするのかは紹介していない。 ちなみに僕は、米を器のかどに手のひらで押し付けるようにしごくやり方である。 人それぞれにそのやり方がこれほどにバラバラになったというのは 箕面温泉スパーガーデンに訪れることを期待されている家族(CMで紹介されている ように家族のメンバーの嗜好がバラバラである)を見るように見事な結果である のであるが不自然に思えるほどの見事さであることにぱっとさせられた。
ある文房具店の前を通りかかったとき あるポスターが目に入った。 それは「京都文具フェスティバル」のものであったが 見た瞬間にはわからなかったが1,2秒見続けていると その異様さに気がついた。 その会のマスコットと思われる「犬」が大きく描かれているのであるが、 何か変である。 その変さはその絵がCGで描かれているから不自然な光沢が目に付いてしまう というものではない。たしかにCGでかかれていることはわかるのであるが それ自体はそれほど気にされるものではないのだ。 それよりもっと本質的なものである。 それは犬の口の部分である。 なぜ犬がマスコットなのかは特に必然性はないのであるが この口の部分はさすがこの会のマスコットだと、、思ってしまう部分では あることはある。 それはいったいどういうことなのか? 口がホッチキスなのである。そう、それがちょうどその犬が 紙を挟んで口を閉じると紙を綴じることが出来るような形に はまっているのだ。 2秒後にそういうものであると認識できたのであるが、 そのあとに妙に気分の悪いものを感じた。 口がホッチキスなのである・・それも普通の犬の大きさの・・。 一体何に使えばよいのかわからないことと、何か舌を間違ってホッチキスで 挟まれてしまうような気もしてしまうということが組み合わさった 気持ち悪さである。その思考をしてしまうと マスコットの使命であるイメージアップとそれを達成するための マスコット自体の愛らしさがまったく失せてしまったような気がした。 顔がかわいいだけにその口の異様さが目立ってしまうのである。 何とかならないものか、と思う代物であった。
先日見たワイドショーでジャッキーチェンのとある映画に因んで 「日本のナイスガイ」を選ぶという催しが行なわれた。 その審査委員長としてでていたのが藤岡弘である。 その会合が無事に終ってそのあとにレポーター野質問に受け答えして いたのであるが、そこでちょっと気になった発言があった。 話しのながれはたしか 最近「セガタ三四郎」で有名になってますがやっぱり若い人にも きゃーきゃーいわれるでしょう?という質問に、 そうですね。。そういう経験が多数です。ということを具体的に 藤岡弘が説明をするという感じであっただろうか。。
非常に至近距離に話題のペットやがある。
このペット屋は数々の話題を振りまいているのだが、
僕は今ごろになって初めて気がついたが、実はそれはずいぶん前から
あったものが発見されたのだ。
ガラスをたたかないで下さい | ガラスをたたかないで下さい | |
ガラスをたたかないで下さい |
ガラスをたたかないで下さい
ガラスをたたかないで下さい |
最近見たら下の3つがなくなっていた。
(1998/3/21) 猫狂いのK君によれば下の3つは犬がいるときであるらしい。
今日昼間に例の店の前を通りかかったところ 例の文字が見事に修正されていた。 その訂正の理由は今までは「田女・女共募集」というのから、 「男子募集」というものに大幅にその募集の対象が変化 したからということらしい。 その急激な変化に訂正した本人もついていけかなったせいか その訂正が実に雑にされていたのである。 つまり消し方が雑なのだ。 その雑さは良く見れば前の店主か店員が新しく開発したと思われる 文字「田女」の文字を確認でいる程度のものである。 しかし、かえってその雑さが歓迎されるべきものであろう。 目をどう凝らしてもそれが確認できないのではもうその楽しみは 伝聞でしか味わうことができないのである。 指で指す、そしてそれを伝えたい当人に目視してもらう。 このプロセスが実行可能なことはその感動をより生に伝えることが できるということを表すからである。 皆さんもこれができている間に確認してみて欲しいものである。
どこかの掲示板に書こうとしたが書けなかったのでここで書いて
おくことにしよう。
テスト。。実に懐かしい概念ですな。あの期間が始まる2週間前
時間割が発表される。教室の後ろに張り出された時間割を
手帳に写しとる時「ああ、そういう時期になったんやな」と
おもう。それからテスト指向の授業をこなしいよいよ本番の
テストなのであるがそのテスト自体それほど緊張するものでも
ない。大体範囲も知っているし、回りにならんでいるのが
授業で見ているいつものメンバーというのがその緊張感を
欠かしてしまうのである。ただ、それほどきょろきょろできない
ことと、個人的に妄想することもできないのがいつもと違うところか。
また、あの訂正のお知らせを持ってくる教官がいつあらわれるのか
というのも結構気になるものであった。実はあの方がドキドキ
していたものである。テストの間というのは大体午前中で
おわってしまい午後はフリーになるのだがその時に見れる
昼間の再放送(特捜最前線が印象的であった)は嬉しいのだけれども
さすがに明日に待ち構えている諸々の緊張を考えれば素直に
楽しめないというジレンマもあった。テスト期間の次に採点休み
という概念を知らない僕は一番気持ちいいのはテストの最終日の
午後であろうか。その無限にも思える午後の時間とそのうえに
昨日まであったはずの緊張前の心の束縛も消えてその解放感を
もっとも良く感じられたのである。それを越えてしまうとテスト
かえしの授業があってそれも午前の授業であったがその後球技
大会があるのだがその球技大会はあまりここちの良いものでも
なかったのでやはり最高潮に嬉しいのはテストの最終日の午後であろう。
この日は友達の家によってそのままよるまで語り遊び続けるなど
気がねなくできたのが実に良かった。それが土曜日なんかであると
ついつい徹夜なぞしたりしてなかなか楽しい思い出である。
う、そういえばある定期テストの時間割を写すときにシャーペンの芯を
借りて「10年後に返したるわ」という口約束をしたことがあるのだが
それの約束をした相手のO君はまだ覚えているという。その期日が
来年に迫っていることを考えるとずいぶんとしつきがながれたのだな
と感慨深げに思う。
あるところ(この歌が全く無縁とは思えないという人である)からの
情報によってその存在を知ることになった
冠二郎の熱唱する「バイキング」であるがついに入手することに
成功した。といってもこの歌はさすが演歌の大家冠氏
によるものだけあって全く苦労することもなく見つけられたのであるが
入手方法の容易さはともあれやはりその味が実に良い。
「バイキング」という素材を使って男の人生を歌い出すという
そういう内容なのであるがやはりそのジャケットの表紙の
冠氏の着込んでいる迫力あるジャケットの模様とその袖から見せている
拳とともに歌の迫力にはすでに陶酔という状態しか許さない
無理にでも「超」という言葉を頭にいただきたいほどの
ニュー演歌なのである。
例によってこのバイキングは
その歴史を踏まえた歌詞とは思えないところがあるのであるが
そこはそこ頭でしっかり翻訳して聞かなければならない。
ドクロ、太平洋、大陸、いろいろあるがそれは拳の先にある何か
を例えていったものに違いないのである。
ところでこの曲を良く聞いてみると何か懐かしいものを感じてしまう。
それは何かといえばかのタツノコのアニメの冒頭でながれていた
それに妙にのりが似ている。
タツノコがこれににているのか、これがタツノコににているのか、
どちらとも判断はつかないが目指すものは一つに違いないと思われる。
むしろその共通点ゆえにその陶酔が得られるものであろう。
そういえば、この商品。むかしからふりかけとしておなじみなものであるが、 客観的にいわれて驚かされる事実を知った。 僕の名前と一文字違いなのである!ローマ字に直してみても一文字違い・・ とても他人のようにおもえないふりかけである。 ちなみにご飯の3回に一度ぐらいはそれをかけて食いたいという衝動に かられてしまうことを告白しておく。
去年の京都市バスの改正で11番系統が路線縮小して 東大路通りをとおらなくなって久しいが それは同時に東大路を南からから今出川を東に折れるバスがなくなって しまっていることを意味していると思っていた。 しかし・・実はそれはうそである。うそであることに最近気づいたのである。 それはどういうことかといえば、市内を走るバスは市バスだけではないということで ある。 つまり京都バス京阪バスをはじめとする会社線バスが走っているのだ。 そういえば目立つ電光掲示の市バスのバス停の横に地味なバス停が複数ある バス停がある。たとえば「京大正門前」である。ここは市バスのほかに 京阪バス、京都バスのそれがある。バス停の名前は市バスの改名前の 「東一条」であるとはいえそれでもちゃんととまることを保証するバス停がある。 ただし、京都バスにおいては日に2本3本しか書いておらずほとんど乗る機会 のないもので特別なバスという印象は否めない。実際はしっているのを 見たことはない。 しかし京阪バスのほうは実はそれが停車することなどをよく見かけているのだ。 しかし客が乗り込んでいるところは見たことがない。 やはり行き先が三条京阪だからであろう。というのは京阪はすでにそこが終点 ではなく、もう少し北の出町柳というところまでのびているからあまり 魅力的な終点でもないのである。それでも少し歩けば河原町三条なので 乗る機会もないといえばないのであるが、やはり客の主眼は四条通にむいているので 中途半端な行き先である・・。 そういつもは上りのバスばかりを見ていたためそういう視点でしか見られていなかった のである。ふとそのバスはどこからくるのか?ということを考えてみた。 考えてみたというより注意してそのバスを見てみたのである・・。 すると・・山中->銀閣寺->三条京阪 という路線案内が表示されていた。 そう、銀閣寺道からこのバスはきたのである。つまりかつて市バス11番が とおっていたようなルートでここまできたバスなのである。 百万遍を東に、南に折れるバスはまだ残っていたのである。 さらに、11番が三条京阪までの路線に変更された理由もわかった。 このバスとあわせると昔の11番の路線になるのである・・ 目からうろこな事実であった。ただ、そのルートを走るバスが半減したのは 事実である。京阪バスの時刻表を見てみると1時間に1本か2本である。 それはかつて11番が走っていた頻度と同じ程度のものであったからだ。
ネットサーフィンであるチャットルームにぶつかったとき
だれもいなかったのであるが、その残念さを吹き飛ばす
記述を発見した。
リロード美人
これはそのチャットルームのリロードボタンの部分に書かれていた言葉
である(このチャットはwwwのCGIの機能を利用したものでこのボタンは
チャットの現在の発言をみるために必要なのである)。
そこチャットルームのコンセプトはあらゆる発言の中に死語が含まれるように
変換を施すというものであるが、それを発言の変換だけでなく
あらゆるページに散らばる表記にも行っているのである。
ページの製作者が「死語」というのは
昔は使われていたけれども今は既に使われていない言葉
というもののみならず自己満足に近い駄洒落
がちりばめられている。
そういうものも含めて拡張した意味での「死語」という言葉を使っている。
特に僕がそこで注目してしまったのは、本来からハズレる方の
死語である。つまり駄洒落の方だ。
それは上の言葉にはまってしまったという事実を考えると
ほぼあきらかではある。
こういうものはなぜはまるかというのはなかなか一般的な説明を
与えるのは難しい。一般に言えることが少ないというか
あまりなるほどといわせるほどの理屈がつけられないのが
現状である。
今回のツボのはまり方に即していえば
その字を読んだ瞬間に音楽付で「ミロード美人」の歌が丁度
あらわれてしまったということであろうか。
もうちょっと一般的に言ってみると、
駄洒落であるから元になる言葉がある。
その言葉の思い出され方と今提供された駄洒落の状況が
丁度いいバランスであればよいというぐらいにしかいいようがない。
その笑いがおもしろければおもしろいほど
ほかの人とそれを共有したいという願望があるのであるが
そうなればなるほどそのままの笑いが伝えがたくなり
伝えたときの失敗も大きくなる可能性が高く感じられ
相当なジレンマを感じてしまうのである。。
ああ罪深き「リロード美人」といったところであろうか。
(北部)生協の飯は日によってその固さが違う。
この言葉は某人が朝定食の時間に
それに対しておもわずはいた言葉である。ちなみに僕もそう思った。
追加情報として以前に話題にのぼった
「手丼」問題が又
同じ食堂のお好みコーナーで浮上しているという。
また確認しに行く必要があろう。
私はよく研究室で椅子寝をすることがある。
場所さえ移動すればちゃんとした寝床があるのにである。
やはりそれはその寝る瞬間までも作業していたいという
願望がその場所移動を最小限にさせたのだろうか。
場所移動はたしかに最小限であるけども
その椅子を集めるという作業は結構たいへんなものがある。
椅子を集める必要があるというのは寝るためには少なくとも2つ、
きちっと寝る(本当にきちっとかというと疑問が残るが)
ためには3つの椅子が必要であるからなのだ。
そのたいへんな作業をそれもそれを必要と感じるときの
眠気さの中で行うのである。普通以上にその労力は
感じるのではないであろうかとも思われる。
しかし、その単純に労力のみを注目した苦労の量
以上に実はそれに影響を与える指標がある。
それは気力という指標である。その指標によってちゃんとした寝床に行く
という作業と近くの椅子を集める作業の「苦労の量」の比較が
逆転してしまうことが極めて多いのである。
その比較によってこちらにするぞと決めたあとの行動の中にも
それをしてしまうという原因が隠れている。
眠気さの中の比較的いろいろな作業の要素を含んだ行動の気持ちよさ
というものである。しかしそれは複雑であればよいというものではない。
適度な簡単さと適度な複雑さがバランスよくなくてはならないのである。
その中でその行動は非常に心地好く続けられそれが終わったときの
充実感が更に心地好いものになるのだ。ゆえにその作業が途中で
いやになってちゃんとした寝床に移動してしまうことは少ない
のである。さらにそうして椅子寝の体勢になったあとの体の
調整もそれほど苦ではないと思えるのである。
その調整というのは椅子をだいたいの感覚で3つ並べるのであるが
いざ寝てみるとその凸凹が痛いときがある。そういうときにその微調整が
必要になるのだ。しかしその微調整というのは椅子を腕でころがして動かす
ほど容易なものではない。ある程度の力を持って体をくねらせねばならない。
それだけの作業を取り出すと結構しんどいものであるが、それまでの充実感
からくる慣性が思わずその程度の苦労を乗り越えてしまうのである。
実に気持ちよく椅子寝をしてしまえるというのにはそういう理由があると
考えている。
これとは別に研究室の某ゼミ室の平板な椅子の椅子寝はまさにそのね転がりの
心地好さから思わず移動してしまう場所であるが、これは又別の話
であろう。
もう2年はたつのだろうか。ある冬のある日 出町の商店街のなかにある スーパーで買った800円台のフライパンがある。 買った当初はその性能対価格比が抜群によいことが嬉しくて 某掲示板に書き込んだほどであったのだが 買ってからしばらくは正直言ってあまり活用していなかった。 しばらくとは言わず、今に至るまであまり活用していないと言われても それを否定する根拠はもっていない。しかし、それでもまったく使わずに居る という訳ではなく、ちょこちょこ使っていたりしたのだ。 何に使ったであろうか。もやしの豚肉をいためるのにも使った。 餃子を焼くのにも使った。ステーキを焼くのにも使った・・ しかし、それだけであったのだ。その形から普通に想像される機能 を利用した調理にしかつかってなかったのである。 しかし、最近新たな使い方に目覚めるに至った。 そう、鍋としての使い方である。正月に迎えた客人がその的確な例を示して くれたことからそれは始まる。水だきすき焼きである。 そういうものをそれ用の土鍋でなくてフライパンで調理したのである。 その時の感動とともにフライパンを購入した当時ある掲示板に書いた 返事の中にあったはずのフレーズ「フライパンは万能調理器具」という言葉を 思い出したのである。それからいろいろな調理に使った・・・ といいたいところであるが、実は飛龍生ラーメンの調理にしかつかって いない。心の中ではパスタをゆがくうどんをゆがくなど、つまり鍋の代わりに いろいろ使うということを想定しているのだがまだまだそれを実行できていない。 しかし、これからそれを行う自信が徐々にみなぎるということを感じているの である。しかし・・・今日も例の生ラーメンをゆがいてしまったが・・
きょうはタイ料理を夕飯としてとろうということになって、 K君の車で出かけることになった。その車をとりに行く道中 農学部入り口への車道を通るのであるが、ここを 通りすぎるのが一筋縄では行かない。 この道は、車が構内に入るために利用する道であるが、 歩道と車道を仕切るガードレールがある。 ガードレールといってもいわゆる道路際のガードレールのように 殺風景なものではなく柄が入っている形のものである。 実は一筋縄では行かないことはこのガードレールの柄には関係ない。 関係があるといえばその高さにあるといえる。 ただ一筋縄では行かないのは、僕を含めたK君以外の人たちには ほとんど関係ないことである。 というのは、ここに出没する動物に異常に興味を持っているか どうかなのである。 ここに出没する動物、例えば昼の3時頃に行けば近くの 素晴らしい料理店「にき」 の経営者の一人と思われるおばちゃんがコロという名前の犬を散歩 さしているのを目撃できたりするが、それはある限られた時間にみられる 自称でありそれほど頻繁に見られるものではない。 それならば、もっともおおいのはなにか? それは猫である。もちろん猫にもいろいろあってそこにはいるけども 人間が寄っていくとすぐに逃げ去ろうとするものもいる。 逆にみゃーと口でなくだけでそれに呼応してにゃーと泣いてくる猫も いたりするのである。 今回その場面で存在したのは後者の猫であった。 我々が歩いている歩道とは反対側の方の土の上にゴミ箱のそばであったが その猫はいた。くわえてそれはK君がひいきにしているチャトラの猫だったの である。 暗いのも何のそのの認知能力を持ってK君はその方向ばかりを見ている。 同行していたTさんと僕のことを気にしてか最初はそこに行くのをためらって いたがもう辛抱たまらず、しかし、それほど勢いもなく 力の緩い磁石が引き合うがごとくにフラフラと近寄ろうとしていた。 そこに至るには上で述べたガードレールがあるのだが、 そこを飛び越えるか、レールが切れているところをすり抜けていかねば ならない。K君の歩みより方はたいそうゆっくりしたものであったので、 見ている我々はほとんどレールの切れたところをすり抜けていくつもりで いるに違いないと思い込んでいたのである。しかし、それは予想とは違った。 K君はその予想に反してふわっというがごとくにそのガードレールを飛び越え たのである。正確には飛び越えようとしたのである。 たしかに体のおおかたの部分はガードレールの上を通過したのは 確認できた。そう実際に通過したのである。しかし、のこりのそれも 5センチの部分が取り残されていたのである。 足先の5センチ、それがガードレールの我々側に最後まで取り残されて しまったのである。 暗かったせいもあるかも知れないが妙にスローモーな印象をのこして K君は倒れた。それも眼鏡を吹っ飛ばすほどに倒れ込んでしまったのである。 そのシーンは彼自身にはどう映ったのであろうか。 本人としては、その倒れ込んだ瞬間には目の高さは歩くときに感じる高さ であるのに、目の前は黒い壁、それもぼけて見える黒い壁である。 その状況はやはりかれにいわせれば「許し難い」ものであったに違いない。 ただ、彼にとって幸だったのはそこにずいぶん彼自身のことを知っている 観客がいたことであろう。その観客がいることでその倒れ込んだことが 「体を張ったギャグ」という認識さえできてしまうからである。 実際僕自身はまずそう認識したのである。 というのは、猫狂いなK君は辛抱たまらず10メートル先にいる 猫にかまいたい。実際かまおうとして移動をはじめたのであるが、 やはりそれには同様に感心を示すとは限らない同行者(われわれ) がいる。この状況においてはやはりK君は自分のわがままを通すために やはり何らかのサービスを提供する必要があるだろう。。 つまりそのサービスとしてこの体を張ったギャグを挙行したと 考えたわけである。 もちろん本人の意図はそうではなかった。 完全に猫に意識を奪われていたが為の所業だったのである。 しかし、ギャグにせよ、天然にせよ、彼はその倒れたことには それほどのダメージを受けているわけではなかった。 それは彼の倒れこみかたがうまかったというのもあるだろうが、 それ以上にやはりその意識の奪われようが我々の想像を越えていた ところにある。そのあと その後の猫のたわむれが3分間以上も繰り広げられていたが その最中はもちろんのことそのあと車に至るまで、更に車にのってから 以降もそれの痛みを訴えることはなかったのである。 痛みがそれほどなくても結構ショックなことであるはずであるが、 それもほとんど口にすることはなかった。 猫狂いおそるべしである。しかし、見ている我々(Tさんと僕) にとっては結構衝撃的な出来事であったのにはちがいない。 故にここにこうやって事実の記述をしているのだ。 これからこの出来事はことあるごとに語り草になるに違いない。 ただそのような素晴らしい出来事にしては少し残念なことがある。 この事件が起ったのは18日であったが、あと二日、そうあと二日遅ければ もっと印象に残るべき事件になったはずなのだ。そう 20日はK君の誕生日だったのである。実に残念なことでこれだけが 悔やまれることである。 ちなみに、そのあとのタイ料理屋の味は素晴らしかった。 しかし、Tさんの「にき」解禁日はまだまだ遠いらしい。