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物思ふ風景(p.8)

  

2003.5.10
昨日のこと、生中継の見物ってのにわざわざ行ってきた。

こないだ偶然「来週は○○から中継で〜す!」と聞こえてきたのが、ちょいと行ってくらぁ…程度な距離の処で、生中継なんて今だかつて見たことが無いから、ちゃっかりしっかり録画もして行ってみたのだった。

取り敢えず近所まで行ってみてロケ隊を探す。

まず見つけたのが電源車。
そこから何本ものコードが延々繋がっているのを辿ればOK。
ちったぁ老舗の店の前に小さな人だかりができている。

あれですな。


さて、テレビカメラってのはもっと離れて撮るものかと思っていたが、ありゃかなり近くから撮るもんなんですなぁ。タレントさんとの距離、僅か1mくらい。

生中継ってんで、スタジオが映ったモニターか何かあるのかと思ったが、ぱっと見は見当たらない。カメラに映り込まないように斜めから近付いて、取り敢えずカメラ脇にカンペが貼ってあるのを発見。成る程、あの位置に貼ってあれば自然とカメラ目線になりますな。

以前聴覚障害者の為のテレビスタジオを見学した時、調整室から手話で指示を出すモニターが付いたカメラを見たので、中継用のカメラもそんなモニターでスタジオを見ているのかも…と思ってみたが、カメラの正面に回るのははばかられて探すのは断念。


次の謎が、音声さんが上から吊るしているマイク。

野次馬が車の流れを止めてしまうので下っぱの兄ちゃん達がのべつ「車通ります〜! トラック通してくださ〜い!」と叫びまわっているのだが、その後ろで中継は気にもせず続いているのだ。

遥か昔、通っていた学校がドラマの撮影現場になった事があって、ロケ隊と野次馬のお影で何かと迷惑を被った学生達が、撮影中ウサ晴らしをしていた事がある。遠くから「本番行きま〜す! カチッ」ってのが聞こえて来ると、わざわざ教室の窓開けて「ぎゃぁぁぁぁぁぁぁぁ!」と叫ぶのだ。すると使いっ走りの兄ちゃん(あれがADって人?)がすっ飛んできて、「静かにしてください〜!」って言うのだった。当然みんなしらーっとして、え?なんですか?ってな態度をするのだが。

あの撮影の時、そこまで静寂を必要としていたはずなのに、編集不可能な生中継であんなに大声を出していて、それを、あのマイクが拾わないのが実に不思議である。よっぽど狭角な性能のマイクなのかね。

カメラはケーブル引きずりながらあちらこちらへ移動して行く。
エヴァンゲリオンみたい。(なんのこっちゃ)
ADさん(?)達がケーブルが絡まないように巻いたり伸ばしたりしながら必死に追いかけて行くのだが、時には走って行く車の上を通さなきゃならなかったりして、結構大変そうである。

移動している間に、番組の方は別のコーナーやCMをやっている。
電気屋の店頭のTVがその番組を映しているのが可笑しい。
後で録画しておいた放送を見直すと、結構別のコーナーも長いのだが、目の前で見ているとそんなに長くも感じない。


野次馬も徐々に増えて行く。(当然自分もその一人である)
ポータブルテレビでずっとこの放送を見ているおじさんが居る。
そのおじさんの後ろに人がたかっている。
その人達はTVを見ていてロケ隊の方は全然見ていない。

おばちゃん達はすぐに仲良しになる。
隣のおばちゃん二人は、聞くからに初対面なのに、さっきからずっとお喋りをし続けている。
片方の人はサイン帳を取り出して、今日も貰うのだと言っている。

携帯で写真を撮っている人が多いのは最近の特徴だね。
どこでも必ず(携帯の)カメラ持参…というのは便利っちゃ便利だ。
テレビカメラに映ろうとしている人は阻止され続けている。
野次馬の見物だけでも充分時間潰しになるのが面白い。

番組もラストが近付き、タレントさんと中継してたお店のご主人なんかが並んで手など振っている。その後ろで、最後だからだろうか、阻止されなかった人達が一緒に手を振っていたのだが、後で放送を見てみたら見事に前列のタレントさんとお店のご主人しか映っていなくて可笑しかった。


サイン貰おうとして近付いて、二度も「まだです」と言われたおばちゃん、罫線入りの単なるらせん綴じノートに、ちゃんとサイン貰えたかな?
 
2002.10.7
掲示板で、何故日本でハロウィンがあまり盛り上がらないのでしょうね? という疑問が出ていた。
確かに、クリスマスでもバレンタインでも、宗教とか民族性とかへったくれも無く無節操に何でも盛り上げてしまう割には、ハロウィンは盛り上がらない。
子供中心のお祭りだし(元々、仮装した子供たちが各戸口を回って「お菓子をくれないと悪戯しちゃうよ!」と言ってはお菓子を貰い集める…という形だったはず)、いろいろとアイテムも多いので楽しそうに見えるのだが…。

でも日本では何故か今ひとつ盛り上がりに欠けるハロウィン、それは何故?
それは、特定の食べ物が絡んでこないから…!

+++

なかなかに盛り上がる季節行事というのは結構ある。

最初はなんたって正月である。
正月にはお節料理を食べる。餅を食べる。

次は節分である。節分といえば豆である。
正確には撒くんだけど、でも最後は結局食べる。
そして関西の節分は巻き寿司の丸かぶりというのをやる。
その年々の恵方<えほう>というのがあって、節分の日は、その方向を向きながら(無言で)巻き寿司を丸のまま食べると、その一年無病息災である…というものだ。

二月の重大行事はバレンタインである。
これは言わずと知れたチョコレートである。

三月は雛祭り。ちらし寿司と雛あられと甘酒を頂く。
五月は端午の節句。勿論、柏餅とちまきである。

盛夏は物食らうお祭りは少ない。いろいろと腐りやすいからだろう。
それでも、土用の丑にはうなぎを食べる。

九月はお月見。月見団子を食べる。
関東の月見団子は丸い白いお団子で、積み上げて飾ったりするが、
関西のはちょっと細長く作ったヤツにあんこがたすきに巻いてある。
月に叢雲…という風情。

そしてクリスマスと言えば、そりゃ当然、ケーキにチキンである。
言い忘れたが、春のお彼岸にはおはぎを、秋のお彼岸にはぼたもちを食べる。

 +++

こうしてみると、日本人てば祭りといえば実に良くモノを食う。
まぁ、かなりの部分、商売人の陰謀…みたいな処があって、でも逆に、商売人の陰謀が当った祭りは盛り上がるのだ。

では、ハロウィンの食べ物と言えば?
カボチャ…
…は、食べない。カボチャはくり貫いて飾りにするだけだ。

ではお菓子?
お菓子もあるけど、「これ」といった具体的な物が無い。
だから、お菓子屋さんやケーキ屋さんでは飾り付けとかしてアピールしているのだが、今ひとつ焦点が定まらずに中途半端で終っているらしい。

 +++

てな考察が、私の以前からの意見だったのだけれど、もっと真面目な話にしてしまえば、結局は「大人の祭り」になっていない、というが一番のネックなのではないだろうか?

クリスマスにしてもバレンタインにしても、昨今はすっかり恋人たちのお祭りになっている。
昔はクリスマスのケーキと言えば、一家で食べる物だったけれど、今はロマンチックな雰囲気作りの脇役…と言った感が強くなってる様に見える。
大人達のお祭りは年々豪華に華やかになって行く。

それに対して子供たちのお祭りは、尻すぼんでいる様な気がするのだ。
雛祭りと言えばお雛様を飾って、近所の女の子達が集まって、女の子だけのお祭りをしていた時代もあるらしい。
端午の節句は鯉のぼり、男の子の居る家では、庭でもベランダでも、必ず鯉のぼりが上がり、今には兜が飾られていた。
けれど、家が狭くなって庭も無くなり、最近は鯉のぼりもあまり泳がない。
十階以上の高層マンションに鯉のぼりが泳いでても、誰も見えない。
お雛様も段飾りなんか飾る場所が無い。
兜だの虎だの金太郎だの、祖父母から贈られてもしまう場所すらなくて迷惑だ、というのが実情。

京都で昔から夏の終りに行われてきた地蔵盆というのがある。
子供の守り神なるお地蔵様をお祭りして、子供たちがゲームをしお菓子を貰う。
京都近郊に住む人にとって、子供の頃、夏休みの最後の楽しみの一つだったらしい。
が、それも子供らが集まらなくなりつつあると聞く。
くじ引きとか露天のお遊びみたいなのはウケない。
駄菓子みたいなお菓子を貰っても、子供らはちっとも嬉しくない。

だから、ハロウィンで、お菓子を貰って歩く…なんて行事もウケ無いのだろう。
みんなデジタルなゲームに夢中だから、自分たちで仮装を作ったり練り歩いたり、みんなで楽しむってのが、できなくなってるんだろうなぁ…。

と、そんな事を考えた。

ハロウィンも、いっそ商店街とかデパートとかが盛り上げたら良いのにね。
仮装して色んなお店を回ると、季節限定の商品をくれたりして、仮装コンテストなんかもしてみたりして。

恋人達も仮装大会をやれば良い。
普段と違う相手の姿が見えるかもよ。
あ、でも、話の方向性が変わってしまいそうで、危険が危ないからここまで。
 
2002.8.26

気が付いたら売り子をしていた。


岸壁に並ぶ六個の巨大倉庫、そこまでに至る列車の始発駅からして既に何千とも知れぬ人の波の溢れる中で、さっきまで感じていたのは確かな違和感である。
自らの意志とは関係なく、同じ目的で同じ方向に向かう故にただ前の人の背を追いかければ良い状態にも関わらず、そこにある感覚は、この人達と一体になれない浮いた感覚。
それは例えるなら、一面の真っ白な羊の群の中にぽつりと紛れ込んだ灰色の羊の、居るべきでない異分子が間違って紛れ込んでしまったかの様とでも言おうか。

三ヶ月前、何一つ想像していなかった。

それは極めて古くから存在を知っていても、自分には関係のないものだった。
そして何年もの年を経て、改めて目の前に、触れられる位置にまで現れた時、しかしそれは未だ取っかかりのないものであって、自ら斬り込んでいきたいとは思わなかったのだ。

けれどそれは、出現した時の砂煙が納まってくると徐々にその姿を露にし、姿形は小さいながら異彩を放つ宝玉を持った一匹の竜の如く目の前に現われる。
関わるつもりではなかったはずが、気が付けばその姿形の魅力故にその竜の姿に双眼を奪われている。
この竜を攻略する方法は何か。
それはただ一つ、たった一枚鱗の剥がれた場所を射貫くのみ。
その場所こそが、自分にとっての手掛かり、斬り込んで行ける場所。


その場所であり、そこへ斬り込んだ結果としての本が、今売り子をしている目の前に積まれている。


巨大な倉庫群に辿りつき、何千何万の人々と共にその中に飲み込まれてすら、異分子の如き違和感は消えていかない。
自ら斬り込み、思いつくまま書かせてもらったものが回線の向こうに置かれても、分厚い本の中の一遍として身請けされて行ったと聞いても、そこには未だ破れぬ壁があった。

それは多分、お客様であるという感覚。
一時的に置いてもらっているだけ、という感覚。
決して同じ場所には立っていないという感覚。

だから、巨大な倉庫の中一面にどこまでも広がるテーブルと椅子と人の波と並べられた大量の本、その隙間を縫うようにして竜の存在を教えてくれた恩人の前に立ってすら、そこに居る自分はただ通り過ぎるだけの人間で、ホンの50cmのテーブルの幅の向こうとは見事に隔絶していると思えた。


人を探していた。
心を込めて紡いだ言葉と想いを込めた筆から零れた絵で彩られた美しい紙を頂けると、過分のお言葉を頂戴していた故。
けれど待ち人は、この何千何万の人の波の中をゆらりゆらりと漂い放浪している。
この様な時の鉄則は「動くな」である。

「ここでお待ちになりますか?」
そう言ってくれたのは、互いに辛うじて名前だけ認識している人だった。

そうして、気が付いたら売り子をしていた。
ただ、人を待つ為だけの売り子だった。
この椅子に座っていた人が、自分も放浪したいからと席を立ち、代りとして居るだけの売り子だった。

目の前には詰まれた本。
その中には自分の文章もある。
そして改めてテーブルのこちらからその本を見つめた時、どこまでも広がる無数の本達の中で、この本だけが別の光を放っている事に気付く。
質素だけれど如何にも可愛らしい、どこにも見劣りしない厚さの、目の前を通り過ぎて行く人々の誰にでも胸張って誇れるものだ。

そして一人の人が足を止める。
その本を手に取りぱらぱらと捲る。
何故か高まる鼓動。
「これをください」の声が、一瞬遠くで聞こえる。
お金を受け取り本を渡す。

その瞬間、一つの体感が心の中を駆け巡る。
本当にその本に関わったのだ、という体感。
そしてもう、さっきまでの違和感はどこにもない。
もう、通り過ぎていくだけのお客ではないのだ。

そして、
次に訪れた感覚に、戸惑いすら覚える。

それは、デ・ジャ・ビュ。

つかみ所の無い既視感。
どれ程物忘れが激しかろうと、これと同じ場所に立った事が無いのは事実である。
ずっとずっと関わってこなかったのだから。
けれど確実に、どこかで感じた事のある感覚。

それは、「楽しい」でも「面白い」でも「満足」でもない ―――
大いなる爽快感。

何年の単位ではない、十何年、否もっと前に、確かに感じた爽快感。
具体的に何かは判らないけれど、その爽快感の中で、やりたい事をやり身体を動かし声を掛け関り広げて行く…それこそがずっと忘れていたあるべき姿ではなかったかと、そう感じていた。

帰って来たのだ。
大きくぐるーっと回って。
この椅子に座る事ではなく、この椅子に座るという行為の現わす場所に。

この次は、なにをしよう。

 


  

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