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物思ふ風景(p.9)

  

2003.11.27
久々に、健康診断というものを受けた。
健康であるかどうかをチェックするのだから重要なものであるはずなのだが、これがなかなかにウットオシイ。

まず、朝食は抜いてこいと言われる。
最近の検査は何かと精度が良くなったので、何かお腹に入っていると数値が微妙に変わってしまうらしい。
精度が良くなったというのは技術が進歩した、ということだから、お腹の中の分は差し引いてくれてもよさそうな物だが、それはそういう訳にはいかないらしい。

すきっ腹を抱えて行くと、まず問診票というのを書かされる。
名前だの年齢だの書いていくと、下の方に、「つぎの様な症状がありますか?」とある。
これで悩む。
頭が痛い、身体がダルい、腰痛、腹痛、下痢、便秘、咳が出る、痰が出る、胃が痛い、動悸がする、めまいがある、目が疲れる、よく寝付けない、寝た気がしない… 等々
それぞれに“時々”“しばしば”“いつも”の3段階のチェックが付いていて、該当するものにチェックせよ、というのだ。
“時々”とは月に一回程度を示すらしい。
“しばしば”は週一回くらい。
でいざチェックをしようとして悩む。
どの設問も、月に1回や2回はある。
どうにも起きられない日もある。
咳が止まんない時も多い。
くらくらするのだって当然ある。
腹痛の全然無い人なんか居るのか?とか思う。
ので、当てはまるのにチェックをしようとすると、ほとんど全部になってしまう。

が、ちょっと待てよ、と思う。
全部にチェックをするのはマズいんじゃないかと思うのだ。
それじゃぁ何だかえらく疲れた人みたいじゃないか。
本人は至って元気なんだけれど、問診票はすっかりお疲れになってしまう。
それはマズい。
あとでいろいろとメンドーなことを聞かれそうなのである。
ので、敢えて、何も無かったことにしてみる。

でもまたちょっと考える。
該当するものは全くありませんな人間なんて、なんか不自然なんである。
普通の人なら何かしらあるのが普通じゃないのかな?
すごくミエミエの嘘を付いてるみたいでイヤなので、下痢と咳が出るを“時々”にしてみる。
これでなんとなく違和感は消えてくれた。
違和感は消えたけど、そもそも全部に該当するのに無かったことにしてるんだから、既にウソツキなのである。
その時点でなーんとなく気分が悪い。

問診票を提出していよいよ検査である。
一通りの検査をして、すぐに判る結果は教えてもらえるのだが、これがまた実に役に立たない結果なのである。

身長はまぁ、伸びても縮んでもいない。
体重はちょっと増えたな…というのは知っている。
でも想像していた程には増えていなかったので、ちょっとだけ悦に入る。
専門の検査機関だもん、すごく精度の良い体重計だから間違ってなんかいないよな…と、こういう時だけは特に強調してみたりする。

問題はここからである。
視力検査をする。
良く見えてますよ…と言われるのだが、これが困る。
本人は見えにくくて悩んでいるのだ。
テレビを見ていてパッと本に目を戻すとピントがまるで合わない。
夜なんかしょぼしょぼしちゃって書き物をしてるとペン先が2重に見える。
要するに老眼が始まっているのである。
でも視力検査に老眼は引っ掛からない。
だから、良く見えてますよ、なんて言われる。
役に立たないのである。

聴力検査をする。
異常ありませんと言われる。
でも実は、本人はちっとも聞こえないのである。
音は確かに聞こえている。
が、昔から人の話が聞き取れない。
耳が悪いんじゃなくて、入ってきた音を会話として組み立てて理解する能力のどこかが壊れているのか欠如しているのか、とにかく聞き取りが苦手なのだ。
だから、やたら聞き返す。
電話なんかでちょっと声がくぐもってたり、電波状態が悪かったりしたらもういけない。
何度聞いても聞き取れない。
あまり聞き返すので、その内相手が怒り出す。
もっと真面目に聞け!とか言われるが、こちらはいたって大真面目である。
大真面目だから何度も聞き返すのだ。
どうでも良いと思っていたら聞き返すようなメンドーなことはしない。
シツレーだとか言われるが、聞き取れないものはしょうがない。
聞き取れないのにテキトーに返事をする方がシツレーだと思うのだが、相手は理解してくれない。
でも、聴力検査は異常ありません、なのだ。
これもまた役に立たない。

血圧を測る。
これがすごくドキドキする。
元々私は脈拍が早いのだ。
どれくらい早いかと言うと、安静状態でも最低で80はある。
普通の人がちょっと運動した後くらいだ。
お医者まで行くだけで100近くになる。
ちょっと急ぐと、別に走った訳でもないのに120とか平気でなる。
ので、毎回、心拍数が多いですねぇと言われる。
しんどくないですか?とか聞かれるのだが、脈拍を計る…というのを覚えてからずっとこんな感じなので、本人はこれといって何も感じない。
でも毎回言われると困ってしまう。
高血圧とかなら、食事に気をつけるとか何か予防方法もあるのだろうが、心拍数が多いのは予防方法なんか無いのである。
お医者だってどうして良いのか答えてくれない。
本人がしんどくないなら問題は無いでしょうとか言われるだけである。
でも毎度のことなので、血圧を測るとまた何か言われそうでドキドキしちゃうのである。
ただでさえドキドキしてるのに、またイランこと聞かれるんじゃないかと思ってもっとドキドキするから、私の心拍数はいつまでたっても下がらない。

内科診察のところまで廻ったころには、さっき撮ったレントゲンの画像が出来上がっている。
最近の検査は仕事が早い。
で、その画像が例の明りの入った壁みたいなところにデーンと取り付けてある。
ドラマなんかで主人公の家族にガンが見つかって、主人公に先生が説明する時みたいな感じである。
そんな感じだから、見ただけでドキッとする。
特に問題ありません、と言ってくれてもドキッとする。
シンゾーに悪い。

最後に受付にカルテやら検査結果やらを持って行って、これで終了ですと言われた時には、すっかり疲れきっている。
すきっ腹で来たはずなのに、食欲もすっかり無くなっている。
なんか来た時より不健康になったみたいな気がする。

健康診断というのは、なかなかにホンマツテントウでウットオシイのであった。
 
2003.9.4
不思議な食べ物がある。
キノコである。

雨の多かった今年の夏、近所の灌木の下に彼らを良く見かける。

薄暗がりの中でボーッと淡〜い蛍光色を放ったような小さな白い一群。
半分に切ったソフトボールにしか見えない巨大なそれ。
面長の茶色い頭にひょろひょろとした足。

民家の近くの平地に生える白いキノコは毒茸です、という定説を信じるなら、あれは多分全部毒茸。


さて、この灌木の近くでは良く小さい子供が遊んでいる。
幼稚園児くらいのはひとりでちょろちょろしていたりする。

そしてあるのはキノコだけではない。
ザクロ、ビワ、ツツジ、みかん…。

ザクロは持ち主不明。
ビワは明らかに誰かんちの花壇の片隅。
ツツジは適当に群生。
みかんは誰かが種を捨てたら勝手に生えて来た…といった処か。

子供たちは良く食う。
ビワも食ったら叱られるけれど、それでも毎年誰かしらは食う。
ツツジは鳥がついばんだみたいに根元からちぎられて散乱している。
みかんは… 実は酸っぱい。という事実をみんな知っている。

子供たちは良く食う。
硬貨を食う。BB弾を食う。ボトルキャップを食う。落ちてるパンを食う。
一番恐いのが煙草だから、遊び場近くに落ちていると母親達から苦情が出る。
煙草を食うと慌てて医者に行かなきゃならない子供も多い。


が、キノコを食った… という話をとんと聞かない。

聞くところによると、あの白いキノコの中には半分食ったら大人でも危ない種類があるそうな。
子供なら、ひとかけでも口に入れているのを見掛けたら、すぐに吐き出させ、そのブツの残りを持って、胃洗浄出来る医者へ走れ!とか聞く。

が、キノコで死んだというのは愚か、病院に担ぎ込まれたというのも聞かない。
別に、安全の為に引き抜いてまわっている訳でもないのに。

小さい頃、物心ついた時にはキノコは手を出してはいけないと知っていた。
でも、手を出して叱られた記憶は無い。
近所で話を聞いても、キノコは食べたら駄目、というのを徹底して言い聞かしているという話は聞かない。
でも、何故かそこに群生しているキノコを、試しにでも食ってみようという子供も居ない。

キノコは食い物だ。

スーパーの野菜売り場には、常時5種類くらいのキノコが並んでいて、それらは良く売れているし、実際良く食べる。
別に切り身で売っていて、本物の姿が解らない訳ではない。

それでも、生えているキノコは、食わない。
なぜだろう。

もしかすると自分だけかもしれないが、否、話を聞いた限りではみんなだったが、なぜかキノコは触らない。
そう、そもそも触らない。

キノコというのは不気味なのだ。

雑木林で、幹にサルノコシカケのミニチュアみたいな板状のが群生してたりしたら、一瞬怖気が立つ。
物陰に群れて生えているキノコは気味が悪い。
触ると病気になりそうだ…と言う人すらいる。
触って病気になるようなら、今頃キノコなんて一掃されている筈だ。

人の、少なくとも一般的な日本人のDNAの中には、キノコは怖い…という情報が入っているのだろうか?
遥か昔、キノコを食べて死んだ人達の記憶が脈々と受け継がれているのだろうか?
だとしたら、スーパーに並ぶキノコが無気味でないのは何故か。

キノコは、放っておいても何故か人間には食われない、不思議な生き物だ。
食ってアタルのは、敢えて食った大人のような気がする。
 
2003.8.23

何故か、ふと。
私が“希”を名乗る様になってからもう4年半が経つのだなぁ…と。

苗字に当る部分は後から付随して考えたものだったし、それも途中で変わっているので全く別物なのですが、“希”という名前は当初想像もしていなかったほど自分の一部になったな…という想いを、最近改めて感じています。

そもそも“希”という名は、ある人のweb小説にゲスト出演させてもらうという企画で、当然本名では困るし、その時のハンドルはおよそ日本人的名前ではなかったので、それ用に新たに考える事となった名前なのでした。

別に何でも良かったんですけれどね、でも自分自身というものを鑑みて、ある何かを一縷の可能性に賭けて希求する…というその時の生き方をその小説のキャラクターにも込めてもらいたくて、その時ネット上で、多分一番私の事を解っていると思える人に相談し名付け親になってもらった、それがこの“希”という名前でした。

でまぁ、名前だけでは何なのでフルネームにしよう、という事で、苗字はweb小説の作者さんと話し合って決めたのですが、何の因果か小説には苗字しか出てこない…という結果になってしまったのでした。

実は一番思い入れがあって、一番こだわった名前が、結局お蔵入りになってしまう…という事実は、随分と不本意なものでした。
それだから、その時から私は、この“希”という名前をあちこちで名乗る様になりました。
そして、何かが動き出したのかもしれません。

あれから4年半。

“希”という名は、すっかり一人歩きをしています。
私の意志にかかわらず、否、まさに私の意志そのものとして希求を続け、長らく追い求めて来た何かの、かなりの部分を確かに見つけたのです。
それはある種の解放であり、見つかる事で希求する目的も無くなったと思われたのですが、それは違っていたようです。

自分の中のある部分に解決がついた時、“希”はまた新たな何かを求めて動き出している、そんな気がします。

以前のハンドルを名乗る場所は、ごく一部になりました。
今では私の名前を“希”としか認識していない人の方が多いかもしれません。
以前の人達も、新たな環境では“希”と呼びます。

そして、実生活に於いてすら、本名の名前が呼ばれる回数より、こちらの名前で呼ばれる回数の方が遥かに多いのです。
電話とかメッセとかオフとかは実生活に近いですし、非ネットの他人はあまり「名前」を呼びませんから。

今、ある意味で本名より大きくなったかもしれない“希”という名前を、感慨を伴って見つめなおす自分がいます。

今、私が希求するものは何なのだろう?
これからの“希”は何を見つけるのだろう?
いや、きっとまた大きなものを見つけるに違いない。

4年半という時間経過を、もうそんなに?と思った時、ふと、そんな事を思い巡らせました。

改めて、名付けてくれた人に感謝しつつ、あぁ、やっぱり一番解っておられたのだなぁ…とも思いつつ。

それにしてもよく考えると、その名付け親の人は、未だに元のハンドルで呼ばはるなぁ…。
その関係性において、名前というものは一種の記号でしかないから…なのかもしれません。
#違ってたら言うてね>名付け親様

 


  

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