TOPへ
物思ふ風景(p.7)

  

2002.7.16
魂は何処から来て何処へ行くのか。

前世も来世も特に在るとは思わない者にとって、それは分裂を開始した時に生れ、機能を停止して土芥に戻って行く時に消えて行く、その間の記録であろうかとは思う。
ただ、魂の器が形成される時、そのDNAの中に脈々と受け継がれてきた百数十億年の記憶が、その器の構成要素として存在し、魂はその器を纏うが故に、その記憶をも受け継いで行く。
生れ出る赤子は、その持てる機能を能力を使いこなすまでに、経験と訓練が必要だけれど、しかし、その生を生じせしめた時には既に、百数十億年の経験と実績をその肉体の上に持っている。
そう考えれば、魂は、百数十億年の記録をその器という名の外部記憶によって持っているとも言えよう。

魂の交感とは何か。
それは、存在と存在が出会い触れ合った時、互いに生じる影響であり変化である。
それは存在が全くの単独で存在している事が無い以上、常に行われている事ではあるが、その影響や変化のひとつひとつの瞬間は微小であるが故に、その交感をさほどに意識する事は無い。
しかし、その影響や変化が常より大きかった時、魂は交感したとはっきり認識する。
その変化のひとつひとつが、その器に、そして魂に経験として記憶として刻みこまれる。
大いなる変化をもたらした交感は、その大きさ故にその変化を周りに伝え、別の魂をも変化させて行く。
その変化がまた別の変化を呼び、その魂がまた別の魂と交感し、全ての存在達の中にさざ波の様に広がって行く変化の記憶によって、その交感は永遠に受け継がれて行く。

一つの魂は、その器が機能を失い消滅する時、共に消滅して行くものである。
しかし、その魂が生じせしめた変化は、百数十億年の記憶に加算されていく。
その加算された記憶を持った器を纏い、次の魂が、そして別の魂が存在し続ける事になる。
それは生物であっても、非生物であっても同じである。
あまたの土塊の上にすら、降り注ぐ水滴の中にすら、百数十億年の記憶は載っている。
それらを共に吸収し合い、互いの中で変化させ、それを依って器もまた変化する。
世界とは、記憶を纏った魂の相互交感からでき上がっているのだから。

魂は何処から来て何処へ行くのか。
それは百数十億年の彼方から来て、数百億年の彼方へ行く。
さざ波の様に相互交感を繰り返しながら。



昨今全く関連の無い別々の場所で、偶然同じ様な命題を掲げられ、自分の認識を以って自分なりの解答を編み直してみようと考えたものです。どこの場所に掲げられたものにも、理解が及ばない部分がありました。自分が漠然と感じていたものが、具体的な言葉となって説明されているものもありました。それらを以って自らを見つめた時、今の自分の捉え方はこうだと言葉にできました。

今これらを言葉にできると言うことこそ、最近の大いなる変化のひとつの具現であり、その変化がどこへ行き着いて行くのか、また何と交感し何に作用して行くのか、我が事ながら興味深いものがあります。
言葉を下さった方々に感謝。
 
2002.7.15
この話は、2002.2.9付けの「物思ふ」の続きです。
内容的には非常に独断と偏見に充ち満ちており、飽く迄も私見である事を最初にお断りしておきます。

まだ、『ぱふ』が今のSFマガジンやミステリマガジンと同じ大きさで、表紙に「漫画エリートのための雑誌」と銘打っていた。週刊少女コミックでは「風と木の歌」が現在進行形だった。江古田の喫茶店「まんが画廊」で、大学ノートに書かれた夥しい落書きの片隅に自分の名前も書いてみた。ある時『ぱふ』に、吾妻ひでおの“るなてっく”なる漫画が「劇画アリス」に掲載されている…と、紹介が載った。「しっぽがない…」と涙ぐむトカゲの絵は魅力的で、是非読みたいと思ったが、「劇画アリス」が自販機本だという事で、涙を呑んで諦めた。近所に自販機など見たためしも無かったし、仮に場所を知っていたとしても、さすがに自販機から劇画雑誌を買い求める根性は無かったからだ。そして『ぱふ』には、印刷屋の広告が乱立し、東のコミケ(コミックマーケット)、西のコミカ(コミックカーニバル)の宣伝が、大々的に載っていた。同人誌は、あの頃からあった。

でも、決して同人誌には関らなかった。興味がなかったのである。多少の羨望はあったかもしれない。しかし、書きたいものなど無かったし、当時ですら凄まじい混み様だった(という噂の)イベント会場に行く気など、さらさらなかった。栗本薫が「ぼくらの気持ち」でコミケ殺人事件(だっけ?)を書いていた。海外SFの大御所翻訳家の先生と親しくなった。SF大会に混ざってコスプレをした。それでも決して同人誌には関らなかった。必要としなかっただけでなく、ある意味関らない事がプライドですらあり始めていた。しかし、小説を書きたい…という想いは、いつもどこかにあったらしい。

ネットと関り出して4年余りが経つ。その間に、webに自分のサイトを手軽に作り、自作の小説を掲載する人が増えた。知り合いのサイトでそれらを読んだ。そこにはそれぞれに叫びがあり、自分たちの言葉で各々の想いが綴られていた。羨ましかった。自分も書きたいと思った。しかし、何を書けば良いのか解らなかった。ただ、羨望の眼差しでそれらの小説を眺め、時々真似をして何かしら書いてみては失望して捨てた。絵は一応形になるのだが、小説は書けなかった。コラムは書けても小説にはならなかった。書いても書いても主人公は動いてくれなかった。自然に動くのだ…と言われても理解できなかった。自分で動かす以外、いったいどう動くと言うのだ。

だから、『椿』という天啓が降臨した時の衝撃は凄まじいものだった。まさに物書きの神の降臨で、何かが憑いたとしか思えない様に書いた。自分で動かすものなど一切無かった。それ故、後で何回読み返しても、それを自分が書いたとは信じられなかった。しかし物書きの神は、もう降りてこなかった。あれから5ヶ月。来月の頭に、自分が書いた短編が、同人イベントの本家「コミケ」で、他の並み居る手練れの方々の末席を汚しつつ活字になって売られる事になった。「漫画エリートのための雑誌」で同人誌なるものを知ってから幾年、関らない事をプライドにしてきた同人誌の世界に、自ら足を踏み入れたのだ。

今から一ヶ月前、とある同人サイトの企画を眺めていた。それは“パラレル小説”というジャンルで、既に出版されているプロの漫画家さんの漫画の登場人物の性格設定だけを頂いて、彼らを全く違う世界に住まわせ、それを描く…という二次小説だった。“パラレル”とはパラレルワールドという意味であろう。その同人サイトの企画では、とある漫画の人物達が北の国へ逃避行、お金を使い果たしてボロボロの安アパートで身を寄せあって暮らしている…という設定であった。新喜劇*1)で神田川*2)…という設定がやたら可笑しくて、しかも書いている人達が皆非常に巧みな人達で、面白くて切なくて、読んでもいない漫画のパロディなのにすっかりハマってしまった。しかしあくまでパロディである。さすがに元の漫画を知らないと本当のところは楽しめない。そしてその企画に乗っている人達は、自分のwebサイトで他にも二次小説を書いているのだ。これを読むためにも元の漫画を読まねば。という訳で、漫画を買い込んでる。大体の基本設定と人物相関が解ったところで、新喜劇神田川企画の執筆者のおひとりのサイトに遊びに出かけた。

唐突だが、同人誌と言えば同性愛である。基本的に男性同士である。性的描写もある。そして、少なくともイベントで売っている二次小説というもののかなりの部分を占めるのがその系統であるというイメージはある。何分にもいままで一切同人誌やイベントに関ってこなかったので、その辺りの理由は知らない。現実は全然違っていて勝手な偏見である可能性も高い。しかしとりあえず、その神田川新喜劇企画は同性愛ものだったし、それに連なるweb小説も同性愛でかつ性的描写もかなりあった。聞くところに依れば、その系統の同人二次小説の“王道”は、その方面が主流であるらしい。がまぁ、あくまでも伝聞であるが故に、どこまでが真実なのかは未だに判断が出来ずにいる。しかし、そんな数々の(見える)事実や(見えない故の)偏見を引っ提げ、いとも気軽にそのおひとりのサイトを覗いて、再度の衝撃を受けた。

それは確かに同性愛だった。性的描写もあった。しかし、本質はそれではなかった。そこにはドラマがあった。どこまでも泥臭い、悩み苦悩する人間ドラマだった。そこにいる人物達は、過去に捕われたり、誰かの言葉に心揺れたり、自分の有り様を自問したり、周りの自然に浸ったり、小さな幸福を見つけたり、そして、自らの中に深く深く迷いこんだりしていた。それはお伽話などではなかった。それはファンタジーでも無かった。それはフィクションではあるけれど、パロディではあるけれど、でも、それはどこかにある現実、どこかに居る誰か、そして、いつか見た或は今の自分であった。有り得ない設定であるけれど、有り得る生々しさだった。設定はあくまでも道具に過ぎなかった。以前『椿』を書いた直後にこの場所で語った様に、二次小説はある一定の前提設定を説明しなくて良い、という利点がある。その利点を最大限まで生かして、自らが見て来た、自らが考えて来た人々の営み、苦悩、歓び、解決して行く過程、見つけ得る幸福、そういったもの達をその設定に上に乗せて描いて行く。美しいものを見て感動した事、心無い言葉に傷ついた事、小さな温もりに安心を得た事、そういう自分の中に蓄積して来た想い達を、二次小説という道具を使って自由に書き綴っている。その発見は、あまりに大きな衝撃だった。

そのサイトで50編以上の作品を全て読み、再び新喜劇神田川企画を読み直した時、自分の中でドラマが生れるのを感じた。否、ドラマというよりはネタである。明らかに設定で遊んでいる自分が居た。自分流のブラックに極端に走るネタだ。思わず企画参加者のおひとりにそのネタを喋ると、即座に言われた。「それ、自分で書き」。「書かなければ書ける様にならない」と言われた。「書き出さなければ、書けない」と言われた。企画に参加している他の人達の物語が巧みに書かれているため、極めて明快に、細部に至るまで世界観ができ上がっている。だからその上で、自分の中から湧いて来るネタをそのまま形にすれば良いのだ。まとまらぬままに、しかし登場人物は動き出している。これはもう書くしかない。

書き始めてみると彼らは勝手に動いた。彼らが何故こんな事をしているのかが解れば、話は自然と先へ進んだ。しかしそれが書き上がった時も、まだ自分が何を書いているのか、何をどう書けば良いのかには気付いていなかった。それに気付いたのは二作目を書いた後だった。一作目を書いて、ネタをそのまま文章にする方法が見えた処で、もうひとつネタが浮かんだ。それは遠慮がちだった一作目と違ってもっと自分の好みの路線に近かった。登場人物はより自由に動いた。自分の一番乗れる文体にすると、それに併せて動いた。その時、何を書いているのかが解った。それは全て、既に自分の中にあったものだったのだ。

書いていくとどんどん非現実的になって行く。SFちっくに、ナンセンスになって行く。それは常に自分の中に湧いて来る発想なのだ。現実世界が、いつの間にか有り得ない世界にシフトして走って行く。そんなアホな…という程話が極端に走って行く。現実の中でそんな話は、与太話でしか無く、時に依っては人を喰った話、馬鹿にした話、そして不謹慎な話として敬遠される事すらある。しかし、物語の中で書く分には誰からも苦情は来ない。そう、書くべき事は、既に自分の中に全てあったのだ。子供の頃から好きだったファンタジー、遊びに行きたかった異世界、可愛らしさの中に巧妙に隠された毒、絶妙な不協和音漂う酔っぱらった文体、それらは全て今まで見て来た、今まで蓄積して来た、自らを構築している要素のひとつひとつなのだ。書くべきはそれだったのだ。

実はずっと待っていた。もう一度物書きの神が降りて来るのを。降りてくればこそ書けるのだと思っていた。しかし、言の葉の神は、その度に物語を運んで来る訳ではなかったのだ。それは文字通り天啓であり指標だったのだ。あの天啓は「もう書き方は知っているのだ」という体感であっただけだ。そして、自分の中にあるものを書けば良いという事は、あの同人サイトの50有余編の物語が教えてくれた。

まだオリジナルを編み出すだけの技術は無い。である以上、二次小説という道具を使って自分の技術を磨くだけである。お絵描の時に捨てたプライドを今度は物書きで捨てた。今回、とある合同企画の同人誌の片隅に載せて頂いた物語は、前の二作よりももっと、自分の中の遊び感覚、不謹慎さ、そして下品さまで思いっきり盛り込んでしまった。どうしてもファンシー系に走るが故に毒の部分が見えにくいお絵描と違って、文章では自分の本質の部分が露になっていると思う。これがオリジナルで書ければもっと良いな…と思いつつ、今はまだ暫く設定ができ上がっている二次小説の世界で、もっといろいろと試してみたいと思う。

ちなみに、上記の新喜劇神田川企画(正式な企画名称は『木乃伊荘』)や、その執筆者の方々の書かれている二次小説は、いわゆるそっち系の同人小説の“王道”からは外れているそうです。少しだけ見聞きした私が独断と偏見で理解したレベルの“王道”とは、そんな風に深く苦悩したり、可愛らしさの中の毒…という様な複雑さなどなく、もっと単純に、甘く切なく幸せに安定している物語の様です。嗚呼もしかして“王道”読み/書きの人たちは“安心”が欲しいのかな…と思いつつ、そんな物語は要らねぇ!と思う私なのでした。余談ですが、今回の合同本『木乃伊荘』用の原稿を編集担当の方に渡した時「君のが一番エロい…」と言われてしまいました。ちょっと待てぃ!と焦りつつ、二次小説で巧みに物語を創り上げて行く人達の技術と心に感心するとともに、自分の本質を改めて見つめた様で、文章って怖いな…と、改めて思いました。


注:*1)新喜劇:藤山寛美の松竹新喜劇。
  *2)神田川:南こうせつとかぐや姫が唄ったフォークソング。上村一夫の劇画『同棲時代』の影響を大いに受けたと思われる。

  新喜劇で神田川な『木乃伊荘』に興味がある方は、こちらへどうぞ→ web木乃伊荘入り口

 
2002.2.26
ある日、一人で留守番をしていると、ホトホトと扉をたたく者がいる。
はぁい… と言って扉を開けると、そこには背広のおっさんが2人。

そりゃ、今だったらいきなり扉を開けたりはしない。
ドアのこっちから誰何して、でっかい声で名乗らせるよ。
が、まぁ、そんときゃガキだったからな、とにかく開けた。

で、このおっさんが何用?
とか思っていると、ひとりがおもむろに内ポケットに手を入れ…
目の前に突き付けられた黒い物体!(どーん!)

「手を挙げろ!」

 ………

  じゃなくてぇ…(あたりまえだ!)

「こういう者だけど、お母さん居る?」

はい、皆さんに質問。
あなたは何歳くらいから「こういう者=刑事」と知ってました?

とりあえず、そん時の私は知ってた。
突き付けられた黒い物体が、警察手帳だという事も。

「いません」
「何時頃帰ってくるのかなぁ?」
「わかりません」

まぁ、会話はこんな程度だったと思う。
それ以上ガキに聞くことなんか無いから、おっさん達はさっさと帰って行った。

が、問題はここからだ。

家に刑事が来たんだ。それも、私服の、だ!
で、私服の刑事が聞き込みに来るとしたら、それは…


 殺人事件に決まっている!


がぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁん!

ガキの頭ん中ぁ、もうこの事で一杯だ。

刑事は何も聞かなかった。
近所で誰か見かけたか?とか、こんな声を聞かなかったか?とか、
お父さんとお母さんが噂してなかったか?
とか…。

ガキでも何かは聞けるだろう?

けど、何も聞かなかった…。
つ事は、聞いちゃいけないんだ。
下手に聞いたらマズいんだ…。

聞いたらなんでマズいか…?


 それは、お父さんが殺人犯だからだ!


なんでここで、お母さんじゃなくてお父さんなのか…というところが、いかにもガキんちょのジェンダーの固定観念らしいところなんだけどね。

しかし、父親が殺人犯だとすると、これは大問題だ。
お父さんは警察に引っ張っていかれるだろう。
お母さんも引っ張られるに違いない。
お父さんもお母さんも居なくなって、自分はどうやって生きて行ったら良いのだ?
いやいや、噂はもう広まって居るだろう。

(ひそひそ)
 「ねぇねぇ、○○さんちのお父さん、殺人犯なんですって」
 「ほんと… 怖いわねぇ」
 「××ちゃん、○○さんちの△△ちゃんとは、もう遊んじゃダメよ」

こうなったら不安は止まらない。

もう、この場所にも住んでいられないだろう。
お父さんもお母さんも居なくなって、自分は親戚に引き取られて、そこを転々とするのだ。
殺人犯の子供は苛められるに決まってる。
継母もそこの子供も、苛めるだろう。
私ゃ、その後の人生を諦めた。

そう言えば、お母さんが帰ってきたら何て言おう…。
いや… バレたら駄目だ。
知らんふりしておこう!
これは自分だけの秘密なんだ…(何故だ!)
自分が守らなきゃいけない…(何をだ!)

などと… 意味不明の論理を展開をしながら、不安な妄想はまだまだ続く、どこまでも。

結局母親が帰ってきても、何も言えなかった様な気がする。
そして、その陰隠滅滅とした妄想は、その夜母親が近所の人と電話しているのを聞くまで消えなかった。

当然、殺人事件なんかじゃなかった。
選挙の戸別訪問かなんかの聞き込みだったのだ。
今、冷静に思い返してみると、そんな事のために、私服刑事が聞き込みしていたか、怪しいものだとも思うのだが、取り敢えず、殺人事件なんか無かったし、父親も母親も捕まったりしなかった。

しかし、あれ以来、私ゃすっかり警察不信である。
小学校の何年生かは覚えていないが、そんなガキんちょを半日も、殺人犯の子供扱いして(してないって!)、不安と恐怖のドツボに陥らせた警察が、今でも大っキライだったりする。


そういえば少し前に、近所の交番所から巡回が来た事がある。
火事とかあった時に、そこに誰が住んでいて、緊急の連絡は誰にしたら良いのか、そゆう事を聞いてまわっていると言う。
住んでる者の一覧、生年月日、果ては実家の連絡先まで聞いて来る。

んなもん、なんであんたに教えにゃならんの!?

で、私ゃおもむろに聞いてみた。

「警察手帳持ってます?」
「え? ありますが…」
「じゃぁ、見せて下さい」
「え? えぇと… それはですね… ちょっと…」

「何で見せれないの?」
「いや… ××交番所の△△ですので、この携帯使って、○○警察に××交番所に△△というのが居るか確認してもらって良いですよ」

何故かね、そいつは最後まで手帳を見せてくれなかったよ。
警察手帳ってぇのは、そんなに安易に見せたらアカンもんなんか?
あん時ゃ、ガキんちょ脅すのに、突き付けてたやんけぇぇぇ!(脅してないって!)

結局、そんなヤツに大事な個人情報を教えてやる気なんかなかったから、何も言わずにお引き取り願いましたよ。
何かあった時困るのに…と、ぶつぶつ言いながら、そいつは帰って行ったけどね。

まぁ、そんな訳で、

私ゃ、警察がでぇっきれぇじゃぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁ!

 


  

TOPへ