96 「猫好き」問題  【課題エッセイ 3 猫】

         

2022.12.20

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 「100のエッセイ」と題して、第1期から第10期まで、およそ18年かけて合計1000編のエッセイを書き継ぎ、それが終わったあと、これでもう終わりと思ってほっと一息ついたのだが、やがて、「何にも書かなくてもいい」状態に退屈しだして、それじゃ続けてみるかと「木洩れ日抄」と称して書き始めたのが、2016年。それから6年経って、気づいたら100編になっていた。こちらは、第1期とかいった分け方はせず、いつ終わるともしれないが、それにしても、その記念すべき「100」の題が「猫」とはなんの因果であろうか。

 と、最初の投稿のとき(12/20)書いたのだが、今(12/21)見直しみると、ナンバリングが「94」のときから間違っていて、これは「96」だった。まあ、いずれ「100」になるだろうから、文章はこのままにしておきます。

 

 猫については、書くべきことがないのである。まるで、例の「作文コンクール」の第1回で、いきなり「窓」という題を出されて途方に暮れたときのようだ。あのとき、ぼくは、まだ中2だった。心の窓がどうのこうの、と、聞いたふうなことを書き連ねてお茶を濁した覚えがあるが、そのとき、優秀作として、入選作品集のトップに載っていた高3のSさんが書いた作文は、もう信じられないほどの高みにあって、圧倒された。朝、学校に来て、いきなり「窓」という題で作文を書けと言われて、「シャガールの窓」をパッと思い浮かべて、さらさらと書けちゃうなんて、同じ空気を吸っている人間とは思えなかった。いまだに、あの衝撃は、心の深部にトラウマのように残っている。

 なんてことを書いて、さっそくお茶を濁しにかかっているが、「猫」のことだ。どうしよう。

 別に猫が嫌いというわけじゃない。好きかと聞かれると、子猫は好きだ、というしかない。いままでたった一度だけ、親戚から頼まれて子猫を数日預かったことがある。それはそれは可愛かった。ずっとこのままなら、猫を飼いたいとも思ったくらいだ。でも、その後、猫を飼ったことはない。

 ぼくが子どもの頃は、猫というものは、ネズミを退治してくれるもので、そのために猫を飼う人がほとんどだった。我が家も、戦後の焼け野原に祖父が親戚の大工と一緒に作った掘っ立て小屋のような家だったから、とうぜん、屋根裏にはネズミが住んでいて、毎夜「運動会」が盛大に開催されていた。

 この「運動会」のことは、年配の人ならだいたいは経験しているだろうが、今の若い人にはおそらく想像がつかないだろう。夜中に、ふと目が覚めると、天上裏を何やら走り回る音が聞こえる。端から端まで、ダーッと突進だ。たまには、チュウチュウという鳴き声も聞こえる。うるさいわけではない。むしろ、楽しげだ。だから「運動会」と呼ばれたのだろう。

 しかし、ネズミは衛生上よろしくない。ペスト菌を媒介するから危険だ。だから、そういうネズミをなんとか退治しようと、「猫いらず」という薬剤をまいたりしたものだが、その薬のネーミングからしても、どれだけ「猫」が活躍したか分かろうというものだ。

 せっかく猫を飼っているのに、ちっともネズミを捕らないとなると、その猫は「役立たず」だとののしられた。我が家では、どうせ猫なんて飼っても、役立たずだったらどうしようもないということだったのだろうか、猫の導入には至らなかったわけである。

 やがて、住宅からネズミというものが姿を消して、あの懐かしき「運動会」もとんと開催されることがなくなっていったのだが、その頃からだろうか、猫がペットとしての地位を確立した。一方では、「番犬」として飼われていたはずの犬も、ペットとして台頭してきて、いまのように両雄が屹立する事態となったわけである。

 で、世は、「猫派か犬派」かと常にかまびすしい議論を呼ぶに至っているのだが、その中で、前回書いたように「鳥」は、完全に面目を失った。もっとも、野鳥のほうは、「野鳥を飼う」ことから「野鳥を見る」あるいは「野鳥を撮る」ことへとシフトしたので、鳥の人気は高齢者を中心にかつてない高まりを見せているのだが、とうてい猫の、あるいは犬の人気に及ぶところではない。

 ついでだから書いておくが、昨今、野鳥撮影の現場で、ヒマを持て余して、そこそこの小金を持ったバアサンなんかが、野鳥撮影でもしてみようかと300ミリとか400ミリとかいった超望遠レンズを、一眼レフとかミラーレスとかのカメラにくっつけて、「あ、ジョビオだ。」とか「なんだ、ジョビコか。」とか、変な隠語をわざわざつかって、いい気になって撮影しているのを見かけるが、ほんと、嫌だ。家の猫でも撮ってろっていいたくなる。(注:ジョビコ=ジョウビタキの雌のことらしい。ジョビオ:ジョウビタキの雄のことらしい。)

 さて、猫に戻るが、猫好きの人たちの過激さには、オソロシイほどのものがある。野鳥オバサンと違って、社会を動かすパワーがあるのだ。

 今から数十年前のことだが、高校の国語の教科書に、梅崎春生の「猫の話」という短編小説が載っていたことがある。貧乏な男が2階の下宿の窓から道路を眺めていると、車にはねられたらしい猫の死骸が片付けられることもなく横たわっている。男は、その雑巾のような死骸を毎日ぼんやり眺めているのだが、日が経つにつれて、その死骸が、ペチャンコになり、やがて、隅のほうからだんだん小さくなり、最後にはすべての断片がタイヤに運ばれて消えてしまうという話だ。もちろん、その猫に男は現代を生きる自分自身を重ねているのである。

 短くて、文明批評も含まれたいい小説で、ぼくも授業で何度か扱ったものだが、ぼくが教科書の編集委員になった20数年前、この小説のことが話題になったことがある。

 その頃にはもうこの小説は、どこの会社の教科書にも載っていなかったので、ぼくが「あれをまた載せたらどうでしょうか?」と提案したところ、編集部の人が、「いやいや、あれは、ダメです。猫が車に轢かれてペチャンコになって、そのまま放置されて、消えてしまうなんて残酷だと、現場の先生たちの評判が非常に悪いんです。」という。

 猫好きの教師には、この話は堪えられないらしいというのだ。そうなると、この小説が載っているというだけで、現場はこの教科書の採用をしないということになりかねない。それは教科書会社としても困るというわけで、どの会社でも掲載しないようになったらしい。結果的にみれば、猫好きが、この名作を教科書から葬り去った形となるわけで、まことにゆゆしき問題というべきかもしれない。

 こうしたことは、ままあることで、猫に関する小説では、志賀直哉の「濠端の住まひ」が、やはり猫を殺してしまうというところが現場の反感をかったらしく、あっという間に教科書から姿を消した。猫好きの勢いは増しこそすれ、衰えることはないのである。

 ちなみに、「猫の話」で、猫好きの悪評をかった梅崎春生は、実は猫好きだったようである。ただ、その「愛し方」が、尋常の猫好きとは異なっていて、猫に対して腹の立つことがあると、「蠅叩き」ならぬ「猫叩き」で叩いたりするなんてことを書いたものだから、多くの猫好きの反感をかって、もうお前の小説は絶対に読んでやらないぞとか、首をくくって死んでしまえとかいった脅迫めいた手紙が、何十通と自宅に舞い込んだという。それが昭和20年代の話である。(講談社文芸文庫『悪酒の時代・猫のことなど──梅崎春生随筆集』)

 まったく、今も昔も、猫好きにはかなわない。

 


 

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