94 花と光をめぐって  【課題エッセイ 1 花】

         

2022.12.2

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 「日本の名随筆」第1巻「花」では、巻頭に、白秋の「薔薇二曲」という詩が掲げられている。編者の宇野千代が選んだのだろうか。それとも、編集者の誰かだろうか。なかなか気が利いている。

 こんな詩である。

  薔薇二曲

  一

薔薇ノ木ニ
薔薇ノ花サク。

ナニゴトノ不思議ナケレド。

 

  二

薔薇ノ花。
ナニゴトノ不思議ナケレド。

照リ極マレバ木ヨリコボルル。
光コボルル。


 実はこの詩、たしか中学生のころに読んだ記憶があって、その時は「ナニゴトノ不思議ナケレド。」の意味が分からなかった。というか、誤解していた。「なんだか不思議なことだけどなあ。」というような意味だと思ってしまったのだ。つまり「なけれど」が「ないけれど」だということが分からなくて、「けれど」を「買いに行ったけれど、品物はなかった。」というような使い方の「けれど」だと思ったのだ。しかし、それだと「不思議な」の「な」が分からない。変だ。変だなあと思って、そのうち、変な詩だなあとまで思うようになって、そのうえ「二」の方もろくに読まないままに、何年も経った。

 それが「何の不思議もないのだけれど」だと分かったのは、いつのことだったか。「なけれ」が形容詞「なし」の已然形で、それに逆接の助詞「ど」が付いたもの、という文法的な説明は、さすがに、教師になったころにはできるようになっていたことは確かだけれど。

 分かってしまうと、これが実に素晴らしい詩だということも即座に分かった。

 バラの木にバラの花が咲くのは、ちっとも不思議なことじゃないけれど、と言いさして、白秋はそのことの神秘を歌う。不思議じゃないし、ごく当たり前のことなんだけど、そのバラの花が咲くということの神秘に思いを致せば、バラの花から、光が無限にこぼれ落ちてくるのが感じられる。その光のありがたさに、涙がこぼれそうだ、というのだ。

 薔薇の花から、光がこぼれ落ちてくる、あるいは、薔薇が光そのものになって、こぼれ落ちてくる、というのは、どこか仏教的で、花祭りのお釈迦様のようなイメージを伴っている。

 そうか、花祭りか。光なんだから、直線的に放射されるという感じが普通なのに、ここでは、上から下に「こぼれ落ちてくる」。そこには水みたいな物質感がある。だとすれば、それは、お釈迦様の頭の上から注がれる甘茶ではないか……。などと勝手にイメージがふくらんでいく。

 ふと詩句に戻れば、そんなことはどこにも書いてない。あるのは、光を放つ薔薇の花ばかりだ。

 花が光を放つ、といえば、伊東静雄の詩も忘れがたい。

   春浅き

 

ああ暗と まみひそめ
をさなきもの
室に入りくる

いつ暮れし
机のほとり
ひぢつきてわれ幾刻をありけむ

ひとりして摘みけりと
ほこりがほ子が差しいだす
あはれ野の草の一握り

その花の名をいへといふなり
わが子よかの野の上は
なほひかりありしや

目とむれば
げに花ともいへぬ
花著(つ)けり

春浅き雑草の
固くいとちさき
実ににたる花の数なり

名をいへと汝(なれ)はせがめど
いかにせむ
ちちは知らざり

すべなしや
わが子よ さなりこは
しろ花 黄い花とぞいふ

そをききて点頭(うなず)ける
をさなきものの
あはれなるこころ足らひは

しろばな きいばな
こゑ高くうたになしつつ
走りさる ははのゐる厨(くりや)の方(かた)へ

 これは、伊東静雄の代表的な詩というわけではないが、高校時代に読んで以来、忘れられない詩となった。

 そもそも、高校時代にどうしてぼくが伊東静雄などというマイナーな詩人に夢中になったのかというと、その原因は国語の教科書にあった。高1か、高2かの国語の教科書に、「夏の終り」という詩が載っていたのだ。夏の終わり、はぐれた雲が、地上のものに「さよなら、さようなら」といちいち挨拶しながら流れていくという一見分かりやすい詩なのだが、それがとても気にいって、新潮文庫の「伊東静雄詩集」を買った。そこには、「夏の終り」とはうってかわって、難解な表現の詩がたくさん載っていたのだが、それでも、それらの詩の痛切な悲哀の感情がぼくの心をいたくうった。その後、三島由紀夫がもっとも高く評価した詩人だということを知って、ますますのめり込んでゆき、今に至っている。

 「ああ暗い」と言って、子どもが眉をひそめて書斎に入ってくる。この出だしが素晴らしい。この一言で、逆に、光にあふれる外の世界がぼくらの眼前に広がるのだ。

 机の前にすわって、父はなにを考えていたのか、いつの間にか、書斎はすっかり暗くなっている。その暗くなった部屋のなかに、子どもの小さい指にしっかりと握られた「固く、小さく、実に似た花」が、そこだけぼうっと光を帯びて浮かびあがる。その光に、おもわず父は「わが子よかの野の上は/なほひかりありしや」と問う。おそらくは暗い思いに沈んでいた父は、その花に、その子どもに、かすかな希望を感じる。そうだ、わが子よ、あの野の上には、まだ光はあるか? そう聞かずにはいられないのだ。なんという痛切な問いだろう。

 子どもは花の名を問うが、父は知らない。でまかせに教えた「白ばな、黄い花」という名前を、子どもは素直に歌にして、母のいる厨のほうへ走っていく。残された父は、書斎の闇のなかに、取り残される。その父は、いつまでも、「野の上の光をまとう小さな花」の残像を追い求めている……。

 伊藤静雄は、小さな花に光をみて、野の光を思い、そして、そこにかすかな希望を見いだしたのだろうか。それとも、重苦しい思いは、彼を包みこんだままだったのだろうか。苦しい時代を生きた静雄の内面が思いやられる。

 白秋の花は、光そのものへと化したが、静雄の花は、光をまとい、光のほうへと誘うものだった。

 室生犀星は、生命ある植物ではなく、氷の中に花を見て、それを極限の花とした。それはもはや「花」ではなく「花にあらざる花」であり、それだけに、強烈な光を放つものとなった。

  

  切なき思ひぞ知る 

 

我は張り詰めたる氷を愛す
斯る切なき思ひを愛す
我はその虹のごとく輝けるを見たり
斯る花にあらざる花を愛す
我は氷の奥にあるものに同感す
その剣のごときものの中にある熱情を感ず
我はつねに狭小なる人生に住めり
その人生の荒涼の中に呻吟せり
さればこそ張り詰めたる氷を愛す
斯る切なき思ひを愛す


 ここには「名も知らぬ花」どころか、具体的な花は出てこない。花は、すなわち美であり、美はすなわち生きる意味だ。

 犀星が繰り返し「愛す」と言うのは、そこに生きる意味をオレは見いだすのだという宣言だ。その美を愛さずしてオレの人生はないということなのだ。

 現実の人生は「狭小」であり「荒涼」であり、自分はその人生のなかで「呻吟」している。けれども、それはオレのほんとうの人生じゃない。オレはもっともっと、「虹のように輝く」「剣のような熱情に満ちた」「張り詰めた」そういう「切なき思い」を生きたいのだ。そう犀星は叫ぶのだ。

 ぼくは、室生犀星を大学の卒業論文としたが、その頃のぼくには、この犀星の「心の叫び」は、まだまだ届いていなかったように思う。なんだか、嘘っぽいと思っていた。無理して、格好つけて、こんなことを言ってるんじゃないか、と、疑っていた。しかし、今では、やっぱりそうじゃないんだ、これは犀星の心の真実なんだと、ようやく納得できるような気がしている。

 こうして、白秋、静雄、犀星と辿ってくると、「花」が、光をまとって、それぞれの人生に生き、それぞれの人生を導いているようにも思えてくる。そしてそこから生まれた詩歌を、ぼくらが「読める」しあわせを改めて噛みしめるのだ。

 と、締めくくろうとしたが、そうだ、大事な句を忘れていた。「花と光」っていうのなら、これを忘れちゃいけない。水原秋桜子の句である。それを締めくくりとしたい。この句を読むと、なにもかもほっぽり出して、奈良の都へと旅立ちたくなる。

  来しかたや馬酔木咲く野の日のひかり

 


 

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