86 うるさいオバサン、あるいはクイナのこと   

2022.2.8

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 どうも、なんでもかんでも「子」をつける人が苦手だ。ペットなら致し方ない。今時、ペットの犬を連れて歩いているオバサン(オジサンとかジイサンでもかまわないけど)に向かって、「その犬、オスですか?」なんて聞こうものなら、下手をすれば、ひっぱたかれかねない。どうしても聞きたい場合は(まあ、そんな場合は、ぜったいないけど)、「そのワンちゃん、男の子ですか?」とか言わねばならないのだろう。そんな口のききかたはしたくないので、なおさら聞く気にはなれない。

 鳥の写真は、もうとっくにやめたつもりでいたのに、またぞろ撮りたくなってしまって、それでも、100万円を超すような超望遠レズンに三脚なんてイデタチは、金もなければ体力もないのでとっくに諦めていて、なるべく軽いカメラになるべく軽い望遠レンズをつけて、手持ちという安直なイデタチで撮ることにしているのだが、いつも行く舞岡公園には、必ず、数名から十数名の「鳥やさん」(この言葉、普及してないけど、どこかで聞いた覚えがある)がいて、ずらりと「大砲」(超望遠レンズのこと)を並べている。それを見るたびに、我が機材の貧弱さに地団駄踏んできたものだが、まあ、最近では達観してきた。そんなところで競争して何になるんだ? って思えるようになったからだ。ずいぶん成長したものである。

 「大砲」かまえたオジサンとかオジイサン(といっても明確な区別はないだろうが)は、ちっとも尊大なところはなくて、むしろ親切だ。何がいるんですか? って聞いても、「うっせえ、自分で調べろ。」とか、「誰がいるんですか? って聞け!」なんことはぜったいに言わないし、「あ、ヤマシギが今日は出てましてね。」とか、「モズですよ。」とか、ちゃんと教えてくれる。中には、ほら見てみてください、と、自分のカメラのモニターを見せてくれる人までいる。(もっとも、それは、かなり自慢めいているわけだが。)

 ぼくが実に苦手なのは、オバサンないしはオバアサン(これも明確な区別は分からないし、昨今はマスクしているので、よけい分からないわけだが)だ。とにかく、しゃべる。しゃべりまくる。それがウルサイ。

 今日も、舞岡公園へ出かけたのだが、いつも「ヤマシギ」目当てで人だかりがしている所へ行く前に、そっちから帰ってくるオジイサンに、「何か収穫ありましたか?」と聞いたら、ニコニコして、「そうですね、クイナがいましたよ。」という。「どこですか?」と聞くと「ほら、いつも皆さんが集まっているあたりです。」といいながら、カメラのモニターを見せてくれた。カメラはニコンで、一眼レフでも、ミラーレスでもないが、ズーム比率のやたら大きいカメラである。ぼくのカメラよりはずっと安いので、なんだか嬉しい。(なんだ、達観してねえじゃないか。ズーム比では負けてるのに、値段で勝ったなんて。)

 クイナというのは珍しい。この舞岡公園ではクイナの噂すら聞いたことがない。もちろん、ぼくはまだ一度もカメラにおさめたことがない。

 しかも、クイナといえば、かの伊東静雄の「秧鶏(くいな)は飛ばずに全路を歩いて来る」という大好きな詩があって、好きが高じて、とある会議でこの詩を絶讃したら、エライ大学教授に「この詩のどこがいいの?!」って強い調子で詰問され、返事にこまったぼくは、「だって、カッコいいじゃないですか!」などと幼稚きわまりないことを口走り、何の説得力もなかったから、その場が妙にしらけてしまったことがある。しかし、この詩が好きなことには変わりはなくて、この全文を書にして展覧会に出品したこともあるのだ。それなのに、このクイナ、写真を撮るどころか、実物をまだ見たこともなかったのだ。なんという幸運!

 興奮したぼくは、期待に胸をふくらませて、彼の地へ急いだ。

 「いつもの人たち」は、今日はまばらで、いつもの場所で、いつもとは違って退屈している。ヤマシギは、今日はぜんぜん出てこないらしい。ちなみに、このヤマシギというのは、夜間に行動することが多く、昼間に姿を現してもほとんど動かないので見つけにくいのだが、ここ舞岡公園では、昼間でもヤマシギがほぼ同じ場所に出てくることで、「鳥やさん」の中では有名らしく、遠く埼玉あたりからわざわざやってくる人もいるらしい。別にきれいな鳥じゃないけど、これを撮ると、仲間に自慢できるのだろう。まあ、何に限らず、趣味というのは、「自慢」するためにやってるようなもんである。本当は、そうじゃない趣味がいちばん高尚なんだろうけど。

 さて、ヤマシギはいないらしいのに、それでも、熱心に望遠レンズを向けている人たちが何人かいる。何だろうと思って、一人のオジサンに「何がいるんですか?」と聞くと、「ああ、クイナですよ。今は隠れちゃってますけど、そのうち、また出てきますよ、きっと。」なんて気さくに答えてくれる。そうか、やっぱりここか、ここで粘ればいんだ、とワクワクしながら、カメラをかまえていると、オバサン(あるいはオバアサン。しつこいので、オバサンにしておきます。)が、連れのジイサン(これはあきらかにジイサン)に、「今日はダメねえ。ジョビ子ちゃんは?」って聞く。

 「ああ、ジョビ子はあっち。ここにはいねえよ。」「そう、メジ子もいないし。」「ガビ子はいたよ。」「ガビ子なんて言っちゃあだめよお〜。あんなのはガビでいいのよ〜。」「あ、そうかあ。」「あのさ、この前、スーパーで、冷凍食品のチャーハン買って食べたんだけどさ、おいしかったわよ。わたし、冷凍食品なんて今まで食べたことなかったんだけど、中華街のチャーハンよりおいしかった。帰ったら奥さんに教えてあげなさいよ。」

 あれ、夫婦じゃないのか。「鳥やさん」仲間なのか、と思いつつ、その「ジョビ子」とか「メジ子」とか「ガビ子」なんて言い方やめろ! と思わず叫びたくなった。しかも「ガビ子なんて言うな」というのは、ガビチョウが中国から持ち込まれた鳥だからで、そんな「外鳥」には「子」なんて付けるななんて、イジメじゃないか。ガビチョウだって遠く故郷を離れて一生懸命生きているんだ。なんて、心の中がざわついた。

 このオバサンが、いったいいつから「鳥やさん」になったのかはおおよそ見当はつく。昔からの野鳥愛好者ではないはずだ。いつだったか、ヨドバシの店頭で、店のオニイサンに、「あたしさあ、これ買ったんだけど、何を撮ろうかなあ。鳥でも撮ろうかなあ。」なんて言ってるオバサンがいた。そのオバサンが指した「これ」というのが、400ミリほどの超望遠レンズなのだ。目的になしに、100万近くの大枚をぽんとはたくのか、このオバサンは、と喫驚したものだ。

 きっとその手合いである。しかし、話を聞いていると、鳥の雑誌かなんかを買って勉強しているらしい。それはそれで殊勝な心がけで、歳をとってから新しいことに挑戦するのはとてもよいことだ。おおいに褒めてやってもいい。

 しかしだ。ジョウビタキのことを「ジョビ子」と呼ぶその姿勢に、なんともいえない「嫌み」を感じるのだ。私はもう、鳥のことならなんでも知ってるの、写真だっていっぱい撮ったわよ、鳥はもう私にとって家族の一員なの、みたいなその心のうちが、なにやら下卑ている。自然にたいする畏敬の念、謙虚さといったものが感じられない。

 それでも、とにかく鳥を撮ることに熱中して、友達とも熱心に情報交換をするならいい。それが、いきなり冷凍食品情報だ。そんなことはバスの中でやれ。(それも大声だと迷惑だけど。)オレは、鳥に、クイナに、今、集中しているんだ! ウルサイ! あっちへ行け!

 とそのとき、カメラを向けた方向の、水際の草むらから、鳥が現れた。お! っと思ってよく見ると、「ヒヨ子」じゃない、ヒヨドリだ。なんだ、それじゃしょうがない。(この心の動きも、自然への敬意が欠けている。ヒヨドリじゃしょうがないなんて思っちゃいけないのである。反省である。)がっかりして、しばらく待っていたが、時間もたったことだし、もういいかと、諦めて立ち去ろうとしたその瞬間、そのオバサンが小さく叫んだ。「あ、クイナだ。出てきたよ!」

 ほんとか? って思いつつ、ファインダーを覗くと、あきらかにヒヨドリじゃない、何か別の鳥が、動いている。あれがクイナなのか? しかし、実際に見たことがないので、本当にクイナかどうかの確証がない。なにしろ、鳥は遠くて、しかも日陰にいて、ちっともはかばかしく動かないから、シギみたいにも見える。

 伊東静雄の「秧鶏は飛ばずに全路を歩いてくる」では、力強くスタスタ歩くイメージなので、このほとんど動かずに、水の中の餌をあさっているのがクイナとは思えなくなってきた。それでも、シャッターを切り続けた。後で拡大して確かめればいいからだ。でも、その時、タシギだったりしたら、がっかりするだろうなあ、このオバサンじゃ信用できないしなあ、と思って、そのオバサンがそこを離れたすきに、熱心に超望遠レンズで撮ってるオジサンに「あれは、何ですか?」と聞いてみた。すると、「クイナです。あっち側にもいますから、行ってみるといいですよ。光も順光ですし。」と丁寧に教えてくれた。「あっち側」にも行ってみたが、もう、クイナは隠れてしまって見えなかった。「この前は、何羽もいたんだけどなあ。」という声がどこからか聞こえた。そうか、それなら、これからときどきここに来れば、もっといい写真が撮れるんだ、とぼくはほくそえんだ。

 それにしても、「あ、クイナだ。」というオバサンの言葉がなかったら、この先ずっとクイナに出会えなかったかもしれない。こうなっては、うるさいオバサンには感謝するしかない。このオバサンは、ひょっとしたら、昔からの野鳥マニアのオバサンなのかもしれない。少なくとも、ぼくよりはずっと知識が豊富である、なんて、このオバサンに対する評価がだんだんぼくの中で高まってきた。まあ、半端な知識しなかいぼくと比べたってしょうもないのだが。

 それにクイナのことを「クイ子」って言わなかったし。

 


 

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