63 デジタルな「ひばり」

 

2020.1.5

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 先日の紅白歌合戦で、美空ひばりがデジタル技術によって「復活」して、「新曲」を歌ったが、どうにも気持ちが悪くて、歌もろくに耳に入ってこなかった。

 さっそくネットなどでも、賛否両論が飛び交っているようだが、それはそうだろうと思う。それについて細かくああだこうだと言いたくはないし、言うだけの見識もないが、率直な感想だけは書いておきたい。

 声はサンプリングして、合成したものらしく、確かにかなり似ていた。節回しもそれなりに似ていた。顔も似ていると言えば似ていたが、あ、ひばりちゃんが生きてる! って言って感涙にむせぶほど似てはいなかったと思う。むしろ、ええ? っていう感じで、なんだか気持ち悪かった。

 しかし、昨今の人間のロボットの表情の出来からすれば、かなり高度になったなあという印象もあったことも事実だし、もっと技術が進んでいけば、限りなく「本物」に近い表情を出すことができるようになるだろう。技術の進歩は、何でも可能にしてしまう。だから、今回のひばりの表情が多少「気持ち悪かった」としても、それは想定内のことで、ある意味どうでもいいことだ。それより、今回痛切に感じたのは、人間の肉体というものの特殊性だ。

 人間の肉体というものは、物質としての肉体と、「魂」とか「精神」とか「心」とかいった、物質だか非物質だか分からないものの混合体で、けっしてサンプリングして合成できるような代物ではない。それがはっきりと分かった。

 人間の肉体は、それまでその肉体が生きた時間、つまりは経験を内部に蓄積している。美空ひばりが、「ひとり酒場で、飲む酒は〜」と歌ったその時、彼女の全人生の経験がそこに、つまり、その声に、その節回しに、その表情に、どっと押し寄せてきていたはずで、その押し寄せてきたものを、その時のひばりが、波の打ち寄せる岸壁のように受け止め、吸収し、そして、外に押し出した、つまりは「表現」したのが、その時の歌である、はずだ。だから、それがライブ録音であろうと、スタジオ録音であろうと、「その時のひばり」と切り離すことはできないのだ。

 たとえば舞台で歌うひばりに、ファンが「ひばりちゃ〜ん」と呼びかけ、それにひばりがニッコリ笑って応えるその瞬間は、その場かぎりで、二度と繰り返されることはない。ファンにしてみても、その自分が投げかけた声援が、ひばりの肉体に染み込んで、たとえそれが二度とひばりによって思い出されることがないにせよ、その時肉体に染み込んだという事実は、大切な思い出として生涯の宝となるだろう。

 それが生身の人間の特質である。それはデジタル技術がどのように進歩・発展したとしても、決してマネのできることではないだろう。いや、いずれは、それもコピーできるだろうと、技術者なら言うだろうが、たとえそれが本当だとしても、そうまでして発展させる必要があるのだろうかと逆に問いたい。

 もちろん、それが様々な分野で応用され、人を救うことにつながる可能性はあるだろう。けれども、そうして技術がもたらすものは、人間存在の「一回性」とか「唯一性」とかいうものを著しく曖昧なものにしてしまう危険性がある。ひとりひとりの人間は「かけがえのない」者であるという現在の常識、それも非常に大切な常識の根底を揺るがしかねない。「かけがえのない」ということは「他に取り替えることができない」ということで、「コピーできない」ということだからだ。

 人間というものは、はかないものであり、一度失われた命は元には戻らない。そのことを痛切に感じるからこそ、愛することも可能になるのだ。

 紅白の舞台に、デジタルなひばりが出現し、新曲を歌い、多くの観客や出演者が感動に胸震わせても、その感動を受け止め、涙を流して舞台から降りてくる「美空ひばり」はそこにいない。その空虚さを、テレビはくっきりと映し出していた。

 


 

 

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