32 「人材」という言葉

 

2018.2.1

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 一般的にはよく使われる言葉だけど、どうにも嫌で使いたくない言葉ってけっこうあるものだ。ぼくの場合は、「人材」という言葉だ。

 企業で生きてきたわけではなく、教育の現場で42年も生きてきた人間なので、あまりこの言葉を使う機会もなかったのだが、退職する何年か前から急に教育の現場でも使われることが多くなってきたような気がする。あ、やだなあと思っているうちに退職してしまい、使わずに済んだのは幸いだったが、それでも、教育に関する言説の中で、この言葉が出てくるたびに、嫌な気分になる。

 いうまでもなく、企業からすれば、自分の会社の利益を増大してくれる人間を欲するわけで、それを彼らは「人材」と呼ぶわけである。しかも、入社してから教育するより、入ってきたときにすでに「できあがっている」ほうがいいに決まっているから、高等教育には、「即戦力となるような人材の養成」が求められる。文科省もそれを唯々諾々としか思えないほど簡単に下におろしてくるものだから、昨今の教育の現場は、まるで「人材養成所」の感をていしているのではないかと危惧されるのである。といっても、現場を離れて4年もたつから、実際のところは知らないわけだが。

 「人材」という言葉は、人間を、何かの道具として考えない限り使えるものではない。別に企業の利益だけのことではなくて、当の学校の中においても、「校長になれる人材がいないなあ」なんてふうに使うことだってあるわけで、まったくこの言葉を使わないというわけにはいかない。

 つまり、人を評価するときに、「何かの役に立つ」「使える」という観点に立つとき、「人材」の出番があるわけだ。しかし、人の評価は、その観点に限られるものではない。もし、それだけが、人間の「価値」を決めるものだったら、「役に立たない人間」は、切り捨てられるしかない。その極端な例が、あの相模原の事件だった。

 あの事件は、実に深い問題をはらんでいるわけで、みんなひどいひどいと言うけれど、その根っこには、「人材」という言葉を無自覚に使ってきた人間の意識がある。そういう世間が、そういう人間たちが、あの事件を起こしたのだといってもいいのだ。

 ぼくが、若いころからずっと信じてきたことは、人間を「手段」にしてはいけない、人間は「目的」なのだということだ。それだけが、ぼくの数少ない信念だった。人間を「手段」にするときに生まれる「人材」という言葉を、ぼくが使えるわけはないのだ。

 教育とは何か、という問題は、つまるところ、人間の幸せとはなにかという問題につながる。人間を幸せにすることが、教育の目的だからだ。

 会社に入って、会社を儲けさせ、その報酬として高い給料をもらうことが幸せなら、教育は「人材養成」に邁進すればいい。けれど、ほんとうの幸せとは何かをじっくり考えるとき、どういう教育が大事なのかは、自ずと分かってくるのではなかろうか。

 もっとも、「ほんとうの幸せ」がどこにあるかなど、そう簡単には分かるはずもない。せめて、教育がそこに直結していることだけは、忘れないでいたいものである。

 


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