1 結論のないエッセイを

2016.10.1

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 身近な話題からはじめて、そこから何となく思想的な、わりあい常識的な結論に落とし込んでいく、というのがエッセイのひとつのスタイルである。毎日読んでいるわけではないが、朝日新聞の「天声人語」とか毎日新聞の「余録」とかは、基本的にはそういうスタイルで書かれているような気がする。

 でも、それじゃつまんないなあと思う。中学や高校での「作文指導」というのも、「導入・展開・結論」の三部構成で、なんてことがもっともらしく言われ、ぼくもさんざんそういうことを言ってきた。けれども、大学の小論文対策なら致し方ないけれど、文章というものが、そういうものだということになってしまったら、こんな味気ない話はない。

 何が味気ないかというと「結論」である。「結論」を書いてしまうということである。

 世の中には「結論」などないことが山ほどある。たとえあったとしても、「個人的な意見や見解」としての「結論」であって、本当の「結論」など滅多にあるものではない。科学の世界だって、いろいろな「結論」はあるだろうけど、そんなのほんの一部のことについてだけであって、「結論」の出ないことだらけというのが、たぶん、科学の現状だろう。まして、科学じゃない分野のことなんて、そもそも「結論」を出そうということからして間違っているとしか思えないことがゴロゴロ転がっている。

 個人的な意見ならいいじゃないの、という人もいるだろうし、生きていく上でのさまざまな局面で、それなりの個人的な意見の表明も大事ということも、もちろんある。

 でも、もっとひろく世界に目をむければ、なにも「結論」なんて必要ないことがいっぱい広がっていることに気づくはずだ。

 問題意識を持つことが大事だなんてよく言われるけど、問題意識なんて持たないで、ぼんやり世界を見ていることのほうがよっぽど大事だと思われることもある。

 何か文章を書いて、それを人に見せたとして、「で、いったい何が言いたいの?」って聞かれたとしたら、その文章は「失敗」なのだろうか。「言いたいこと」なんて別にないよ。ただ、いいなあと思ったんだ、きれいだなあと感じたんだ。それじゃいけないのだろうか。

 雑木林の中を歩いている。さっとあたりが明るくなり、風が吹きはじめ、地面に木洩れ日が落ちることがある。心がうごく。ああ、いいなあと思う。それと同時に、何か大切なことが分かった気がする。けれどもそれが何か分からない。

 「木洩れ日が思想を照らす不思議な時だ」という友人林部英雄の高校時代の句は、その自由律の独特なリズムとともに、こうした瞬間を見事にとらえた句で、初めて読んでから50年以上もたっているのに、忘れられない。この句に対して「その思想ってどんな思想なの?」って聞くのは野暮というものだ。そこに「語られない思想」があるのだから。

 20代の頃、こんな詩を書いた。題は「夕日のように」

 

夕日のように突然
心の暗闇を
すみずみまで照らして
またたくまに
色あせる思いがある

ぼくはそれを
ことばにしようとするが
広い原っぱのむこうに
白い旗となって
風にはためくばかりである

 

 この時、ぼくの「心の暗闇」を「すみずみまで照らした」思いとは何だったのだろう。それは結局言葉にならなかった。「結論」はないのだ。そういう意味で、「木洩れ日」の句と、ぼくの「夕日のように」には、共通点が多いと言える。

 思えば「意見」などというものは、どんなに「個人的」なものであろうと、つまらぬものでしかない。「人に伝わらない意見」など意味がないから、意見を書こうとするとき、ぼくらは懸命に「伝わる文章」を書こうとする。そして、その努力の過程で、ともすれば、ぼくらは伝えるべき相手におもねってしまう。分かってもらえそうな意見に落ち着かせようとしてしまう。無理矢理「落としどころ」を探してしまう。そして、その時、自分の中の「本当に個人的なもの」は押し殺されてしまうのだ。

 ぼくがあらゆる文章表現の中で、「詩」(もちろん俳句や短歌なども含めての詩だ)がいちばん好きなのは、「結論」を必要としないからだ。「言いっ放し」が許されるからだ。詩を読んで「で、この詩はいったい何を言いたいのだろう。」と考えるほど無意味なことはない。そう考えて、簡単に答の出るような詩は、だいたいはつまらない詩なのだ。

 萩原朔太郎の「竹」という詩を読ませて、「で、結局、この詩の言いたいことは何?」って聞くような国語の教師は、万死に値する。なんて大げさだけど、国語教師のこうした「心ない質問」が、「詩嫌い」の生徒を大量生産してきたことは確かだ。

 で、この文章でぼくは何を言いたいのか、というと、なるべく「結論」のない文章をぼくは書きたいのだということなのだ。そういう意味では、限りなく「詩」に近いエッセイ、それがぼくにとっての「理想のエッセイ」なのだということだ。

 すでに、このエッセイがその「理想のエッセイ」からほど遠いことは、「結論」を言っちゃったことからも明らかだが、それほど「結論のないエッセイ」というのは、難しいのだ。あ、これも「結論」かあ。

 


「木洩れ日抄」の連載を始めます。掲載は随時です。いつまで続くか分かりませんが、どうぞよろしくお願い致します。(2016.10.1)


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