【劇評】「座・コスモス」の『イーハトーブ、星と虹と。』──魂の叫び

 

2016.11.12

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 「座・コスモス」の『イーハトーブ、星と虹と。』を、せんがわ劇場で見た。宮沢賢治の『よだかの星』と『ひかりの素足』の二つの作品が、それぞれ独特のスタイルで演じられた。

 『よだかの星』は、昔、栄光学園の演劇部を設立したとき、自分で脚色・演出して、なかば強引に旗揚げ公演の舞台に載せたことがあるが、そのときは、原作のセリフだけではとうていもたないので、様々な余計なセリフを加え、原作にはない登場人物まで加え、挙げ句の果てに、ラスト近くでヨダカがタカを撲殺するというとんでもない設定にまでして、「ドラマチック」な芝居にするために苦心した。幸い、生徒の熱演もあって、ぼくにとっては、そして結構多くの観客にとっても忘れられない舞台になったのだが、今回の『よだかの星』を見て、まったくといっていいほど(じっくり付き合わせていないので正確なことは言えないが)「原作のまま」で演じて、それで、十分ドラマチックな舞台になっているのに、驚いてしまった。

 「原作に忠実」というのがモットーだということは、キンダーの高中さんから聞いていたので、どのように演じるのか興味津々だったのだが、朗読と演技をバランスよく組み合わせ、チェロとパーカッションの生演奏も加えた舞台は、なるほど、こういう可能性があるんだなあと感心しきりだった。もっとも、作ったばかりの高校生の演劇部では、こんな芸当は望むべくもないわけだから、ぼくの脚色の「無理矢理」な所は、必然的だったとも思ったわけである。

 この後に演じられた『ひかりの素足』とも共通することだが、今回の舞台のキーワードは、「魂の叫び」だったと思う。賢治のこころの深淵にある罪の意識。そこからの救済を懸命に求める心。よだかは、空に向かって飛び続け、太陽や星に救済を求めて叫ぶ。けれども、救済はどこからももたらされない。よだかは、それでも飛び続け、やがて「自分のからだがいま燐りんの火のような青い美しい光になって、しずかに燃えている」のを見るのだが、まるで、それは「求めて飛び続ける」ことだけが、「救済」の条件であるとでもいうかのようだ。

 少なくとも『よだかの星』では、賢治が提示した「救済」は、そのような形でしかもたらされないものだったのではなかろうか。そこに賢治の生きる姿が二重写しになる。あれほど熱烈な信仰に生きながら、賢治は、「悟り」やら「心の安らぎ」やらとは無縁だったように思える。ほとんど絶望と紙一重のところに成り立つ賢治の信仰のありかた。だからこそ、賢治の作品は、現代人の心をとらえて離さないのだ。

 小さなリングのような舞台から声を絞って叫ぶよだかの声は、賢治の「魂の叫び」を現出して見事だった。そして、わがキンダースペースの高中愛美さんの若々しく溌剌とした演技で舞台を盛り上げる姿が、頼もしく誇らしかった。

 休憩を挟んでの『ひかりの素足』は、衝撃的だった。宮沢賢治が大好きだなどと広言しているわりには怠け者で、その半分も読んでおらず、限られた作品ばかりを繰り返して読んできたので、この『ひかりの素足』は、読んだことがなかったのだ。そのせいもあるのだろうか。とにかく、思わず体が震えるほど感動した。

 作品としてはそんなに長いものではないが、その全文(たぶん)を8人で朗読するというスタイル。ひな壇に座ったまま、ほとんど縛られているといった感じで、体の動きを抑制されて、80分近い時間、ほとんど声だけで、言葉だけで、舞台が進行する。鍛え抜かれたベテランの役者さんの声や、若手の実力者の声だから素晴らしいのは当然のことだが、それにもまして、その言葉をつむいだ賢治のすごさが実感された。ほんとうに、賢治の世界はどこまで奥深いのだろう。

 この『ひかりの素足」の言葉の群れを、怒濤のように押し寄せる「声」の中に聴きながら、その中に、ぼくが長いこと親しんできた『青森挽歌』『無声慟哭』『春と修羅』などの詩、そして『銀河鉄道の夜』の中の言葉たちが、ひしめき、うずまいていることを感じていた。初めて耳にする「作品」なのに、それは「聞いたこともない作品」ではなかった。ぼくの心に染み込んでいる「作品」だった。

 そうだ。賢治は、結局、たったひとつの「作品」を書き続けたのだ。たったひとつのことを求め、叫びつづけたのだ。その「ひとつ」が何かを言葉にすることはできない。できないからこそ「ひとつ」であるのだろう。

 『ひかりの素足」では、『よだかの星」とは違って、はっきりと「救済」のイメージがある。身も震えるような地獄のような「厄災」のイメージ。(ほんとに怖くて震えた。朗読がいかに素晴らしかったかという証左だ。)そしてその後にくる目もくらむような法悦のイメージ。安らぎに満ちた極楽のありさま。それが「真実」であることを賢治は心から願っていたのだろう。けれども、それは「客観的な結論」ではない。それが「客観的な結論」なら、賢治はもっと心安らかに生涯を終えることができたはずだ。「救済」を願いながらも絶望し、絶望しながら祈る。やはり、それが賢治の生き方だったのだろう。

 そしてそうであるからこそ、賢治の作品は、賢治の言葉は、今でも、震災という厄災に苦しむ東北の人々を励まし続けているのだ。

 この公演は、「東日本大震災復興支援公演」と銘打たれている。「座・コスモス」の思いは、十二分に達成されていたと思う。心からの敬意と感謝の意を表したい。

 


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