99 実現しないから夢なんだ

1999.12


 

 

 夢を持つことはいいことだとばかり言っていられない。夢が生活を破壊するだってある。

 豪華な高層マンションを買うために、極端な節約生活をしている夫婦がテレビに出ていた。夫はそういう生活に辟易しているのに、妻は「私の夢を知っていてこの人は私と結婚したのだから、がまんするのは当然」と言い放つ。そして、およそ楽しくもない生活をただひたすら夢の実現のために送っている。

 どこかおかしい。「夢の実現のために、楽しくない日々を我慢して送る」というのが、おかしいのだ。そもそも夢というのは、生活を楽しくするものであるから夢と呼ばれるのであって、夢のために生活が楽しくなくなるというのは言葉の矛盾である。

 高層マンションを買おうとムキになる主婦は、夢を持っているのでななく、欲望を持っているにすぎない。そういう所に住んでみたいなあと楽しく夢見るのはいいが、何が何でもそれを手に入れようと思ったとき、夢は夢でなくなり、妄執になる。そして妄執は必ず我々を苦しめる。

 「フランスに行きたしと思えど、フランスはあまりに遠し」と歌った萩原朔太郎は、ほんとに夢見る人だった。時代が違うと言えばそれまでだが、大正時代だってその気になればフランスにだって行けた。しかし、彼は何が何でも行こうなどとは思わなかった。それが夢だったからだ。

 まだ家庭用のビデオというものがなかった頃、ぼくは映画のコレクションに憧れた。好きな映画をコレクションして、好きなときに自宅で見ることが出来たらどんなにいいだろうと思った。ところが、今、そのことがほとんど90パーセント実現しているのに、そのことにぼくはそれほどの喜びを感じることができない。かえって、数百本の映画のビデオを前に、その整理することすら億劫に感じているくらいなのだ。

 死んだら天国に行ければいいなあというのが人間の究極の夢だろう。その夢は、現実の苦しさを和らげ、希望を与えてくれる。しかし、何が何でも天国に行かねばと思ったとき、天国へ行くためのマニュアルが生まれる。あとは人を蹴落としてまで、自分だけが天国に行こうという妄執だけが残る。すべての宗教戦争はそのようにして始まったのではなかったか。

 夢が実現したってかまわない。しかし、実現することは夢にとってはどうでもいいことだ。夢見たそのとき、ぼくらの心の中はふっと明るくなる。実はそれこそがほんとうの意味での「夢の実現」なのだから。