97 違いがわかること

1999.12


 

 

 違いがわかるってことが、いちばん大事なことかもしれない。

 犬に興味のない人間は、どの犬を見ても同じ顔に見える。もちろん、柴犬とチワワの違いぐらいはわかるだろうが、柴犬2匹の顔を見分けることは、犬に興味のない人間にとっては、そんなに簡単なことではない。しかし、犬好きなら、いとも簡単なことだ。

 日本文化を研究しているという大学生から、「浪曲と講談ってどう違うんでしょうか。どうしてもわからないんです。」と聞かれて、面食らったことがある。こんなにも違うものの違いがわらないなんてことがあるもんだろうかと思いながらも、「浪曲は、ほら、曲師といって三味線もった人が脇にいて、伴奏するでしょ。講談は一人ですよね。」などと説明しても、なかなか納得しない。ここは小林秀雄流に、「聞くしかないです」というしかないのだが、せめて、浪曲の一節なりとも唸れれば説明は楽だったろう。

 沖縄民謡と日本民謡の違いを言葉で説明しろといっても難しい。しかし、はっきりと違う。そのはっきりとした違いがわかるためにはは、やはり、聞き慣れることしか方法がない。

 バロック音楽はどれもみな同じに聞こえても、聞き慣れれば、みんな違って聞こえる。

 四月、初めての教室に行くと、教室に座っている生徒の顔がほとんど区別がつかないくらいに同じに見える。それが次第に違いが見えてくる。ぼくの場合は、違いがはっきりわかったころに次の四月になってしまうことが多いが、続いてもう1年教えたりすると、さらに、その生徒の内面の違いもわかってくることがある。

 違いがわかると、楽しみもふえる。インスタントコーヒーですら「違いのわかる男のゴールドブレンド」といわれたくらいだ。しかし、それだけなら、違いがわかることがいちばん大事ということにはならない。

 違いがわかれば、ひとくくりにすることがなくなる。違いがわかれば、違いを大事にすることにつながる可能性がでてくる。それが、大事なことだと思うのだ。

 同じ顔に見える生徒に向かって、大声で号令したり、叱責したりすることは、教育の現場では珍しいことでないどころか、常態ですらある。それがすべて悪いわけではないだろう。しかし、一人一人の違う顔に向かってでなければ、言葉は力を持ち得ないこともまた事実である。