96 キマジメな女

1999.12


 

 

 近年、50歳の大台にのり、ハタと目が覚めたように分かった事実がある。それは、世の女というものは、みな「キマジメ」だということだ。何事にも例外はあるが、このことについての例外は極めて少ない。

 裏を返せば、男はほとんど例外なく、どこか「フマジメ」だということだ。どんなに「マジメ」な男も、どこか根本的に「フマジメ」なところがある。逆に、どんなに「フマジメ」な女も、「マジメ」に「フマジメしている」という感を拭えない。

 テレビドラマなどを見ていても、フシダラな女はいくらでも出てくるが、そのフシダラさには必ず「マジメ」な根拠が付いてる。一方、チャランポランな男(なぜかフシダラな男という言い方はしない)は、絶対に理由づけなどされない。何か辛い過去があったからチャランポランになってしまったのではなくて、男は生まれつきチャランポランなので、そのまま育てば、チャランポランな男になるという寸法である。

 もうずいぶん前になるが、競馬の実況中継を女性アナウンサーがやったことがある。女は感情的だから、男のアナウンサーより興奮して、より迫力が生まれると考えたのだろう。ところが、実際にやってみると、女性の実況はまるで迫力がない。馬がゴール前の直線でどんなに競っていても、女性のアナウンサーは興奮するどころか、ますます冷静になるばかり。どんなに大声で叫んでも、どこかが醒めているのが、はっきり分かった。

 男性アナウンサーの実況は、ゴール直前にもなると、アナウンサーはほとんど馬になりきってしまうのだが、女性にはそれができないらしい。野球中継でも、「ボールカウント、ツー、スリー、最後の一球、投げた!」というようなときも、男性の実況では、アナウンサーは投手に、そしてボールそのものになりきってしまう。女性の野球実況は聞いたことがないが、やはりきわめて冷静なものになるだろう。

 置かれた状況のなかで、いつも「マジメ」に対処しようとする女性の原理は、生きる原理でもある。女は、一直線に生きようとする動物なのだ。

 それに対して男は、いつも生きることから逸脱しようとする動物である。馬になったり、ボールになったりして、いつもフラフラと世界をさまよい、地に足をつけた生き方ができない。いつも夢見心地で、現実を知らない。そして、いつでも「キマジメな女」の視線に恐怖を覚えつつも、それによって何とかまともに生きていけるのである。