93 一分間

1999.11


 

 小春日和に誘われて、近くの久良岐公園に出かけた。ここは横浜市でも有数の広くて、整備された公園である。歩いて10分ほどでここに行けるというのは、我が家もなかなかいい所にあるなあとつくづく思う。

 その公園の池のほとりを歩いていると、一人の老人が一つ所にじっと立ったまま、対岸の藪を見ている。何かいるのかと思って、そちらを見たが何もいない。通り過ぎてしばらく歩いたあと、またその池に戻ってみると、まだ先ほどの老人がじっと石像のように立ったまま、対岸を見続けている。

 よく見ると、老人は手に双眼鏡を持っていて、ときどきその双眼鏡でのぞいている。肩には、望遠レンズをつけたカメラを下げている。なるほど、バードウォッチングだなと納得がいく。水面に目をやると鴨が数羽浮かんでいる。しかし、老人はそれには目もくれないで、ひたすら対岸を見続けている

 その時、ぼくの視界を右から左へ、キラッと青く光って通り過ぎるものがあった。カワセミだ、とすぐに分かった。カワセミは、近くの松の木の中に吸い込まれた。もう、見えない。老人は、しかし、そのカワセミに気づいていないようで、相変わらず対岸を見ている。

 近寄って「カワセミですか?」と聞いてみた。

 老人は、厳しい顔を和らげて、「ええ、さっきね、そこから水に飛び込んだもんだからね。」という。

 対岸は、ちょっとした崖になっていて、そこに木が生えている。その木の枝にとまっていたカワセミが、魚をねらって飛び込んだのだろう。テレビの動物番組で見たことがある。

 「さっき、あっちの方に飛んでいきましたよ。」というと、老人は「そうですか」と言ったきり、まだ岸を見続けている。ぼくもしばらく見ていたが、カワセミは現れなかった。

 「あの崖に、巣を作っているんでしょうねえ。ちょうど、いいですものね。」といいながら、今度ここへカメラを持ってきて、一日中待っていれば、カワセミの写真が撮れるかも知れないなと思った。

 池の端を通り過ぎる者には、カワセミは見えない。ただそこで、じっと待ち、見続けるものにしか見えないものがあるのだ。小林秀雄は言っている。「諸君は試みに黙ってライターを一分間眺めてみるといい。一分間にどれほどたくさんな物が眼に見えてくるかに驚くでしょう。そしてライターを眺める一分間がどれほど長いものかに驚くでしょう。」(「美を求める心」)と。

 その一分間を知らず、多くの人は池の端を通り過ぎる。