91 マサルアラメヤ

1999.11


 

 横浜市歌というのがある。作詞が森鴎外であることで有名である。(横浜市民以外には有名ではない)森鴎外作詞なのだから当然むずかしい。といって例の「箱根八里」ほど難解ではない。この歌を、ぼくら横浜市の小学生は、小学校でみっちりと教えこまれた。昼休みなどに、よく放送で流れていたように記憶している。たぶんぼくと同年代で横浜の小学校に通っていた者なら、たいていは歌えるはずだ。

 「我が日の本は島国よ、朝日かがよう海に」からはじまって、叙事的に、江戸時代には小さな漁村だった横浜が、西洋文化の入り口としての港町に発展していく様を見事に歌っている。ついでながら、この歌は曲が先に出来て、それに鴎外が後から詞をつけたのだという話をどこかで聞いたことがある。もしほんとなら、よけいすごい。

 歌詞の途中に「昔思えば苫屋(とまや)の煙」というのがあって、もちろん「苫屋」というのは、海辺の粗末な漁師の小屋をいうのだが、どういうわけか、ぼくの家の前に「苫屋」という名字の親戚があったので、幼いぼくはてっきりその苫屋さんのことだと思い込み、苫屋さんってずいぶん昔からあったんだなあと妙に感心していた。

 さて問題は、歌の聞かせどころ「されば港の数多かれど、この横浜にまさるあらめや」というところ。(ここにくると歌のテンポがぐっと落ちて、荘重な感じになる。)この「まさるあらめや」の解釈を、小学校の何年だったかはまったく覚えていないのだが、先生が説明してくれたことがあった。

 「みなさん、アラメというのはね」と先生は言った。「海にある海藻ですが、コンブなどととは違って、穴だらけの海藻なのです。ですからここの意味は、世界には多くの港があるけれど、横浜の港に比べたら、それはアラメのようにボロボロな港なんだということです。わかりましたか。」

 ぼくは、信じた。「アラメ」は見たことがないが、図鑑には載っていた。そうか、ヨコハマの港はすごいんだ。あとはみんなアラメだ。ボロボロなんだ。

 その誤りに気付いたのは、中学での国文法の授業中だった。アッと心の中で叫んだ。

 しかし、ぼくはそのスゴイ説明をした先生をバカになんかしたくない。ステキな解釈じゃないか。この解釈によって横浜市歌はぼくにとって永遠の歌となった。そして同時に国文法を授業で教えるときの格好の教材となっているのである。