88 色鉛筆は夢みる

1999.10


 

 「私は幼児から、色と形そのものについて──ということは、林檎の皮の赤とか、鶏の雛の黄色とかいうのではなしに、色紙の赤や黄そのもの、またビルディングと空の境の垂直の線とか、ドガの水浴図の女の背中の線の流れとかを、建物そのものや、女性にまつわる雰囲気とまったく関係なしに、抽象的に──快感を感じる、時には陶酔を受けるという性癖があった。」と中村真一郎が書いている。それに続けて中村は、小学生のころに父からもらった「百色のクレイヨン」の美しさに打たれた経験を述べている。

 そうか、そうだったのかと思った。ぼくがずっと感じ続けてきたことだけれど、こういうふうに言葉には出来なかった。こういう文章に出会うとほんとに嬉しい。

 ぼくも小学生のころ、遠い親戚にあたる「大船のオジサン」から、色鉛筆のセットをもらったことがある。このオジサンは、大船に住んでいたのではなく、多分大船に勤めていたからそう呼ばれていたのだと思うが、我が親族にはめずらしく、ハイカラな感じのする人で、飛行機でドイツに行って来たと言って、おみやげにその色鉛筆のセットをくれたのだった。

 ドイツ製の色鉛筆というだけで、ぼくにはそれが宝石のように思えたものだ。もったいなくて、とても使えるものではなかった。使いきってしまったらもう二度と手に入れることはできないように思えた。ぼくは何年もの間、その鉛筆を使うこともなく、従って一度も削ることもなく、大切にしまっておいた。そして20年以上もたったころ、それは自然にどこかに消えていった。

 捨てたとか、なくしたとかいうのではない。自然に消えたのだとしかいいようがない。ぼくはその鉛筆を一度も使わなかったけれど、その鉛筆に魅了されつづけ、そのぼくの恋着によって鉛筆は多分消耗されつくしたのだ。読まなくても、自然に体内に取り込まれる本があるように、使わなくても、ちびてしまう鉛筆もあるのだ。夢の中で、激しくその鉛筆は使われたのだろう。

 色鉛筆やパステルは、その豊かな色が、一つ一つの色の夢をたたえている。実際にそれらで絵を描けば、なかなか思うようには描けない。そればかりか、何かの彩色に使われたとたん、色そのものの魅力を減じてしまうこともある。色は、色鉛筆やパステルとして箱の中に並んでいるときが、いちばん美しいのかもしれない。それはたぶん色が夢そのものの姿としてそこに存在しているからなのだ。