87 走れませんではスミマセン

1999.10


 

 教師というものは、生徒を教育するだけではなく楽しませなければならないことになっている。時として安手の芸人を演じることも教師の使命らしい。

 だから、体育祭の実行委員の生徒たちが、担任リレーという案を提出してきても、別にそれを教師が受け入れても何の不都合もないのである。たとえ一人100メートルずつ走るということでも構いはしない。走れない教師がもしいたとしても、知ったことじゃない。まるで恥をかくのも芸のうちと言わんばかりである。

 そんなわけで、担任リレーは行われることになった。ぼくは高校1年の担任だから、とうぜん走らねばならない。しかし、ぼくはとても100メートル全力疾走なんて出来ないし、するつもりもない。考えてみれば、高校を卒業以来、100メートルを全力で走ったことなんてただの一度もないのだ。その上、ぼくはもう何年も前から高血圧で、毎日降圧剤を飲んでいる身だ。命の危険がある。

 「オレは走らないぞ」と威張ってみても、「じゃあ、10メートルぐらいでバトンタッチしたらどうですか」とか、「じゃあ、山本さんの遺影を持って誰かに走ってもらえばどうかな」とか、まともにとったらイジメそのもののすごい言葉も、日頃のぼくの毒舌へのリベンジであろうと軽く受け流しはしても、心中決して穏やかではない。

 しかし、走れませんでは済まない。ぼくは100メートル全力疾走をしますと誓って教師になったわけではないが、そんなことは何の理由にもならぬ。それで、自分の息子ほどの年齢の若手の教師に、平身低頭して代役をお願いすることになる。身過ぎ世過ぎのためとはいえ情けないことである。

 体育祭当日、中学から高校まで24人の担任の中で、自分で走らなかったのは、骨折して腕を吊っている先生とぼくだけ。「アンタ、やめておきなよ。怪我するだけだよ。」なんていって心配してやったヤツまで、夜中に特訓をしたりして、見事に走ってしまい、もうリレーは大盛り上がり。挙げ句の果てに、若い教師からは「あれ、山本先生走らなかったんですか?」と軽くバカにされ、生徒からは「役に立たないよなあ」と陰口たたかれ、もう立つ瀬がない。

 太宰治は運動会嫌いだったんだぞなんて言い返してみても、体育祭の熱狂のなかでは、そんな言葉も空しい。日露戦争の提灯行列の人混みで、戦争反対なんて叫んだ人は、こんな気持ち味わったんだろうなあと思いつつ、興奮気味の職員室を後にしたのであった。