86 こだわり

1999.10


 

 「こだわり」という言葉は、本来いい意味ではないのに、最近は「こだわり」をいい意味で使う「下品」な流行り病が栄え続けていると大岡信が書いているのを読んで、そう言えばそうだなあと思った。

 確かに一昔前までは、「こだわり」はいい意味ではなかった。試しに広辞苑をみてみると(このフレーズは嫌いだが、まあ仕方ない)「こだわる」の意味は、「1.さわる。さしさわる。さまたげとなる。2.気にしなくてもよいような些細なことにとらわれる。拘泥する。3.故障を言い立てる。なんくせをつける。」となっている。ついでに「拘泥」は「こだわること。小さい事に執着して融通がきかないこと。」とある。

 それが近頃では、「こだわる」ことが、悪い意味だという意識すらないようにも思える。「気にしなくてもよいような些細なことにとらわれる」ことが、一種の美学となっているような風潮がある。それはたぶん、「気にしなければならない大きなこと」へのあきらめから来ているのだろう。天下国家のことよりも、うどんの腰の方が重要な問題になる。

 先日も夜遅くの電車の中で、中年の男三人がほろ酔い機嫌でうどんについてしゃべっていた。どこそこのうどんがうまいとか、うどんの腰がどうのとか。いい年をした男が人前で大声でしゃべるようなことじゃないだろうと思いつつ、今の景気をどうするかとか、グローバルスタンダードがどうしたとか大声でやられるよりはまだましかと考え直したりもした。

 神は細部に宿り給うというのは、ぼくの大好きな言葉だが、しかし細部にこだわればそれでいいというものでもない。富岡多恵子が昔あるエッセイで「食べ物について無頓着なのも嫌だが、食べ物の事ばっかり言ってる人も苛々する」というようなことを書いていて、いたく共感したものだが、それは今でも変わりない。

 何事でも「そればっかり」というのは見苦しい。執着しつつも、いつでも離れられること。こだわりつつ、こだわらないこと。それこそあるべき姿ではないか。

 いくら下関のふぐがうまいからといって、それを空輸で取り寄せたり、わざわざそのためだけに出かけていかないこと。いつか訪れる機会があったらそのとき食べようと思っていて、結局死ぬまでそういう機会もなかったというようなのが、美しい。

 こだわりを最高の徳と考える人は、そういうこだわりを持った自分というものにこだわっているだけの自己中心的な子供にすぎないのではあるまいか。