84 マン・フォー・アザーズ

1999.9


 

 「Man for others」(他者ための人間)というのがぼくの勤めている学校のモットーである。これは母胎となっているイエズス会(フランシスコ・ザビエルもその会員であったカトリックの修道会)の学校すべてに共通したモットーでもある。だから、ことあるごとに偉い人の話の中にこの言葉が出てくる。

 この言葉を生徒や教員がどのように理解しているかは知るところではないが、普通は「他者のための人間であれ」、つまり「人のために奉仕する人間になりなさい」という教えとして受け取られているようだ。そのことに別に異論はないのだが、しかしそういう「教え」はどうも押しつけがましく感じられるのも事実だ。おそらく多くの生徒もそういう押しつけがましい言葉として受け取り、自分勝手に生きながらも、たまには「人のために」いいことをしなくちゃいけないぐらいに考えているのだろう。

 しかしぼくはこの言葉を「人間はもともと他者のために創られているのだ」という思想として受けとめている。努力して「他者のための人間」になるのではなくて、好むと好まざるとにかかわらず、ぼくらはもともと「人のために」生まれてきたし、現に生きてもいるのだ。そのことを知らないから、気づかないから、いつまでたっても幸福になれない。

 ぼくらはいつからか自分のために生きていると思いこんでしまっている。教師も「勉強はだれのためでもない。自分のためにやるんだ。」と教えこむ。「お母さんに喜んでもらえるように勉強しなさい。」とはあまり言わない。しかし、勉強であれ、仕事であれ、それが意味を持つのは、それが人のためになったり、人を喜ばせたりするからで、自分ひとりが嬉しがっていても何にもならない。

 せっかく100点とっても、喜んでくれる人がいなかったら、だれがスキップして家路をたどるだろうか。

 どんなに状況が最悪で、不幸のどん底にいても、もし誰かが助けを求めてきたなら、そのことがどれだけ大きな救いとなることだろう。こんなに不幸な自分でも、誰かの役にたてると思っただけで胸がほんのりあたたかくなる。そして、自分の不幸などどうでもいいことのように思えてくるに違いない。

 ぼくらが味わうことのできる究極の幸福とは、たぶん、自分の幸福などどうでもいいと思えることだ。「Man for others」とはこの真理をあらわす究極の逆説なのである。