83 干上がる海

1999.9


 

 

 あと40億年ぐらいすると、地球の水は全部マントルに吸い込まれてしまい、海が完全に干上がるという研究を日本人が発表したらしい。ずいぶん先の話だが、それでも地球が確実に死に向かっているということ、地球上に人類がどんな素晴らしい文明を築いても、最終的には滅びるものだということがますますはっきりしたというわけだ。もっとも地球の滅亡は、太陽もやがて燃え尽きるという話を何十年も前に聞いたことがあるから、別に目新しいことではない。しかし、海が干上がるというイメージは新しい。しかも蒸発するのではなく、地下深くマントルに吸い込まれるというのだから、ますます新鮮だ。

 こういうイメージを前にすると、南極の氷が溶けだして、水面が上昇するという危機も、いずれ水面が下がるからいいじゃないの、なんて感じになるが、数十年先と、数十億年先では、ケタが違いすぎる。

 結局滅びる、というのが結論で、それならば仏教の諸行無常こそ唯一の真理のようにも思えてくる。

 『ドイツ炉辺話集』に、王様に可愛がられていた家来が不始末をしでかし、死刑の宣告を受けたが、王様が特別に「好きな死に方」をしてもよいとの許可を与えたところが、その死刑囚は「老衰死」を選んだという話がある。「老衰死」も死には違いないから、結局この死刑囚は死ぬまで生きたということになるわけだが、そういう意味では、我々はみんなひとり残らず死刑囚だ。むしろ「老衰死」が確定してないだけ、ドイツの死刑囚よりタチがわるい。

 どうやら事の本質は、時間のケタの違いにあるようだ。時間のケタを数時間にとるならば、あしたの試験のことも、今晩のおかずのことも大問題となる。しかし数十億年にとったら、試験もおかずもどうでもよくなる。日本という国もどうでもよくなり、環境保護も無意味となる。腹が痛くて死にそうです、薬をくださいと叫んでいる人は、いずれ人間は死ぬのです、たいしたことではありません、今薬を飲んでも、それは一時のやすらぎ、どうせ最後は苦しんで死ぬんです、ジタバタしなさんな、なんて誰だって言われたくない。

 五十歩百歩だが、五十歩と百歩の違いは大きい。そのささいな違いの中で、せせこましく生きていくしかないのが人間だろう。そういう時間のケタに合わせて我々は創られているのだ。従って我々の思考は、海が干上がったら飲み水はどうすればいいんだろう、ぐらいの所までしか及ばない。それでいいのだ。