81 娘の尻の見ゆるまで

1999.8


 

 

 俳句というのは、簡単なようでいて難しい。なかなか奥が深いものである。ただ本気でやろうという気になれないのは、テレビの俳句講座などで、先生が「ここはこうしたほうがいいですね。」なんて言って平気で添削をする、これがどうも気にくわない。それじゃ、自分の作品ではなくなってしまうじゃないかと思うのだ。

 先日、大学時代のクラスの卒業以来の同窓会があったのだが、その二次会で、およそ30年ぶりに再会したSという男が「山本と言えばさあ、ほら、八重桜 女の尻の……」というから、「何だそれ。」と言うと、ぼくの隣に座っていたFという男が「違うよ、女じゃなくて、娘。八重桜 娘の尻の 見ゆるまで だよ。どうだいい句だろうって言って自慢してたじゃないか。」と言う。ぼくにはそんな記憶はまったくない。しかし証人はふたり、絶対にぼくの句なのだそうだ。Sは言う。「オレはさあ、八重桜を見るたびに、思い出して、口ずさんでるよ。」と言う。「しかし、どういう意味なんだ、その句は。」とぼく。「それは君に聞きたいよ。」と二人は笑っている。

 わけのわからない句だ。八重桜を見ていると、少女の尻を連想するということか。「見ゆるまで」とは何なんだ。少女の尻が目の奥に見えるようになるまで、じっと八重桜を見ているということか。それならかなりアブナイ。それにしても「娘の」なんて古めかしい。つまらぬ句であることは間違いない。しかし作者が忘れてしまっているのに、二人もの人間が覚えているというのだから、句としては冥利に尽きるというものだろう。

 どこか分からない句というのが、案外記憶に残るものなのかもしれない。ぼくが高校時代に作った句に「山茶花や 黄色きシベの あたたかさ」というのがあるが、説明的でよくない。去年の冬、近江の湖東三山を訪ねたときの作「しぐるるや 古き仏の 口の紅」のほうがまだましか。

 知人の作品で今でもそれこそ口ずさんでいるものに、「粉雪を 吸い尽くして湖(うみ) 深き色」「百日紅 君に会わざる 日の長き」(小田原栄)の二句がある。小田原さんは、本格的に俳句をやっている人だから、うまいのは当たり前。

 素人では高校時代の友人林部英雄の「木洩れ日が思想を照らす不思議な時だ」がある。これは、木洩れ日を見るたびに口をついて出る。いい句だと思う。

 ふと口をついて出る句。そんな句が、いい句なのかも知れない。それなら八重桜の句も、案外いいのかも。