80 ののしるしかないか

1999.8


 

 

 『愛する二人別れる二人』は高視聴率の番組らしいが、その内容のあくどさに辟易しつつもつい見てしまう。子どももいるのに浮気をして働かず、「オレは勝手だ。勝手で何が悪い」と居直る男に、飯島愛が「あなたはつっぱってるけど、ほんとは辛いと思うんだ。だから話して。」と柔らかく、心を開かせようとすると、デヴィ夫人がその男をいかにも軽蔑しきったような顔をして辛辣に批判する。男はそのデヴィ夫人に食ってかかる。殴りかかってわめく。こんな場面の連続だ。

 あんな言い方をされたら誰だってキレルよな、とも思いつつ、しかしキレた時点でもう負けだなとも思う。そしてまた、あんな言い方をされた経験が男にはなかったのではないかとも思うのだ。はたして男は言った。「そんな言い方したら、今の若いやつらは誰だって聞かないよ。」

 家庭でも学校でも、みんな飯島愛のようなソフトなアプローチばかり。お前なんかゲス野郎だ、死んでしまえといった悪態を小さいころ大人から投げつけられたことがない。君の気持ちは分かるよ、分かるから、さあ心を開いて話してごらんという言い方に慣れきった子どもは、いつもそういう対応を求めてしまう。そういう言い方をしない者にはすべてを棚上げにして、相手を責めまくる。「そんな言い方されたら誰だってキレルよ。」というのがそのときの言い分だ。

 「そんなこと言われたらオレだって傷つくだろ」という10年も前の生徒の言葉がよみがえる。彼は自分がやったことはやったこととして、自分が傷つくことはあってはならないと思っていたのだ。

 自分のしていることの善悪は問題ではなく、自分への応接の仕方だけが問題になる。問題をことの善悪から、応接の仕方へとすり替える。その応接の仕方は、あくまで「自分をやさしく理解してくれる」思いやりにみちたものでなければならないというわけだ。

 しかし、言うまでもなく問題なのは、ことの善悪・正否である。どんな言い方であろうと、家族があるのに働こうとしないのは誤りだし、自分の子どもは養う義務があることは間違いない。遊びたいから遊んでいるだけだ、で済まされる問題ではない。

 間違ったことをした場合は、どんなに口汚く非難されても仕方がないのだ。それが生きるということのドラマツルギーだろう。人間はののしられてはじめて恥を知り、今度は恥をかかないように努力する。それしか人間として成熟する道はないのかもしれない。