8 いつかそのうち

1998.5


  何気なくする行為でも、最近ふとこれが最後かもしれないなと思うことがある。

 本を買うにしても、昔だったら、いつか読むだろうと無意識のうちに思っていて、とりあえず買っておくというのが当たり前だった。それが、どうもこの2、3年様子が違ってきた。

 ぼくは、今年で49歳になる。ほとんど50歳ということだ。残りが少ないのである。

 そして、今まで漠然と考えてきた「いつかそのうち」というのが、実はどこにもない、いや昔からどこにもなかったのだということに、ちょっと愕然としながら気づいているのである。

 若い頃にはその「いつかそのうち」は無限の時間を意味していた。いつかそのうち、世界文学全集だろうが、日本古典文学大系だろうが、腰を落ち着けてゆっくり読む時間があるということを何となく信じていた。だからこそ、読んでもいない蔵書は、いつかそのうちの充実した時間を約束していたかに見えていた。

 しかし、今ぼくは、昔考えていた「いつかそのうち」そのものの時間の中にいるわけなのだ。だとしたら、今が「いつかそのうち」なのだ。買いためた本は、今こそ読まねばならないはずだ。しかし、実際には気持ちはそのように切り替わっているわけではない。相変わらず、いつかそのうち読もうと思って本を買い、いつかそのうち見ようと思って映画をビデオに録画し、いつかそのうち聞こうと思ってCDを買っている。

 中原中也の詩に「ああ それにしてもそれにしても/ゆめみるだけの 男にならうとはおもはなかった!」という一節がある。(『山羊の歌』所収の「憔悴」)何だか、妙に今の心境にぴったりだ。所詮、がんばったところで、世界中のすべての文学を読み尽くすことはできないし、公開されたすべての映画を見ることもできない。それでも、いつかそのうち読もうと思い、見ようと思っているのである。中也の嘆きは、ぼくの嘆きであり、しかも、それは決して辛いだけの嘆きではない。