7 本物見なけりゃ駄目なのか

1998.4


 先日みた映画「グッド・ウィル・ハンティング」の中で、精神科医が、天才少年に向かって「君は何でも知っているが、それは本からの知識だ。君は、ミケランジェロについて、何でも答えられるが、しかし、あのシスティナ礼拝堂の匂いを知らない。」というようなことを言う場面があった。本からの知識は、体験に及ばないということだろう。

 これは極めて正論で、反論の余地がない。本物を、実物を見なければ、何にもならない。美術全集で、ミケランジェロを何時間眺めても、本物には勝てない。

 で、問題は、それなら誰もがイタリアに行くしかないのかということだ。イタリアへ行って、本物のミケランジェロを見なければ、ミケランジェロについて語る資格がないのだろうか。

 昔からぼくは思っているのだが、一枚の複製画を見ただけでも、伝わるものは伝わるのではなかろうか。仮に、伝わったと思ったことが錯覚だったにしても、錯覚には錯覚なりの面白みがあるのではなかろうか。もちろん、そんなことが通用するのは、素人の特権ではある。その道の研究者なら、そんないいかげんなことではいけないだろう。しかし、普通の人間が、何をどう楽しもうと勝手ではないか。人に迷惑をかけるわけじゃない。

 実際の経験には限界がある。どんなに金と暇があったって、世界中の美術館を巡り歩くことができるわけではない。金と暇がないものには、ルーブル一つ見に行くことだってそうやすやすとできるわけではないのだ。それに、経験は多ければ多いほどいいというものでもないだろう。一枚の複製画を、何年も壁にかけて眺めていることのほうが、本物の前を駆け足で通り過ぎることより、ずっと豊かな経験だってこともあるのではなかろうか。ろくにモナリザも見てないのに、「本物を見た」というだけで大きな顔をされたくないものである。