78 忙しい

1999.8


 

 インドの映画興行師のドキュメンタリー映画をテレビでやっていた。いかにも「興行師」という感じのどこか怪しい風体の老人が、それでも映画への情熱から精力的に地方での興行を行う。映画には人生のすべてがある、などと言うところからすると、必ずしも収益のためだけではなく、一種の使命感が彼を駆り立てているようでもある。

 その興行師があるときインドの山奥の村へ出かけていく。映画を一度も見たこともないという人々が住んでいる村である。夜になって始まった映写会で上映されたのは、安っぽい作りのアクション映画である。人が銃で撃たれ、車は暴走する。はじめのうちは村人は男も女も笑いもせずに、真剣に、それこそ食い入るように見ているが、やがて一人二人と耐えられないような表情で立ち上がり、家に帰っていく。そして映画が終わらないうちに大半の村人が帰ってしまった。

 翌日インタヴューに村人は答える。「もう映画なんて持ってこないで欲しい。見ていて気持ちが悪くなるだけだ。私たちは忙しいんだ。」

 この「忙しい」という言葉が妙に印象的だった。縦穴式住居のような粗末な家に住み、食べ物と言えば猿を捕まえて生で食うというような、ほとんど原始人のような生活をしている彼らから「忙しい」と言う言葉が発せられたのが不思議だった。「忙しさ」は、先進国の文明人の専売特許ではなかったのか。

 しかし考えてみれば、どんな原始的な生活だって、いや原始的な生活だからこそ、日常の仕事は一日の時間を埋め尽くしているのだ。たまに家内が家をあけると、一日は食事の準備、掃除などであっという間に終わる。鬼のいぬ間に洗濯なんて言ってられない。鬼のいぬ間に洗濯に追われるという始末だ。

 日々の暮らしは、雑草のような雑事で覆われている。その日々の暮らしそのものが楽しく充実しているなら、それはそれでいいのかも知れない。しかし、インドの村人の映画を見ているときの真剣ではあるが、楽しそうでない表情を思い出すと、文明というものについてあらためて考えさせられる。

 何かと評判の悪い近代文明だが、我々文明人は忙しい忙しいと言いながらも、映画を見ることに喜びを感じることができる。どんなバカバカしいアクション映画にも、面白味を感じ取ることができる。これは我々が暇だからではない。我々が文明人であるからである。近代文明は、やはりなんといっても人間を成長させたことに間違いはないのだ。