68 子どもだまし

1999.6


 

 最近の子どもというのは、コマッシャクレテいるから、なかなか子どもだましなんてことは通用しない。だまされて泣きをみている大人はごまんといるけれど、だまされたと言って泣いている子どもはあんまりお目にかからない。

 そこへいくと、ぼくらの子どものころは、お祭りなどになると、バチアタリにも神社の境内に子どもをだます悪いオジサンがどこからともなく出てきたものだ。

 「いいかい、君たち。これでのぞくとね(と、紙でできた小さな直方体の箱を見せて)何でも、中身が透けて見えるんだぞ。だから、お菓子屋さんに行っても、どのまんじゅうにアンコがいっぱい入っているかすぐ分かっちまうんだ。」

 そんなはずはないと子どもながらに思うのだが、中身のアンコが見えるなら得だなあと思ってしまう。しかし、いくら昔の子どもでもまるっきりバカというわけではない。一応疑う心は持っている。

 「ウソだと思うなら、ほら、じゃあ君」と見物の子どもを一人よんで、何やら耳元でささやいてから(これが怪しさの極みだが、子どもはあんまり変だとは思わない)鉛筆を取り出し、その子どもにその箱を渡して「この鉛筆の芯が見えるだろ。どうだ?」と言ってのぞかせる。「あっ、ほんとだ」と子どもが言う。「じゃあ、手を見てみろ。骨が見えるだろ。」「あっ、見える、見える。」

 これでもう決まりである。値段は50円。ぼくは、友だちと家に飛び帰って50円もらって買ってしまった。さっそくのぞいてみると、たしかに鉛筆の芯みたいなのは見えるが、ぼんやりしていてとてもクリアに物の中身が透けて見えるという代物ではない。友だちも何か変だねという。せっかく50円出したのだが、分解してみることにした。すると何と、箱の中央に穴のあいた仕切があり、その穴に鳥の羽を切ったものが張ってあるだけなのだ。ぼくらはさっそく神社の境内に向かう。

 「オジサン、インチキじゃないか。」怖いもの知らずである。今ならとても言えやしない。オジサンはちょっとことばにつまったが、「ぼうや、こっちへおいで」と言って、狛犬の影に連れていき、怖い顔して「誰にもいうんじゃねえぞ」と一言。ぼくらは、それ以上何も言えなかった。あれから、40年以上もたってから、こんな所でほそぼそと人に言いふらしている始末。まったく昔の子どもは幾つになっても他愛ないものである。