66 ブッシュマンと「ありがとう」

1999.6


 

 池澤夏樹が『狩猟民の心』という文章で、ブッシュマンのことをちょっと紹介している。ブッシュマンは、お互いに助け合うということが日常生活の中で当たり前のこととなっているので、人にたとえ命を助けてもらっても「ありがとう」とは言わないのだそうだ。

 この文章は教科書に載っていて、実はぼくもそれで読んだのだが、高校1年の生徒の間では、たとえ当たり前のことでも「ありがとう」というべきではないかという意見が圧倒的だった。彼らが、いつもいつも「ありがとう」と言っているとも思えないが、意見としてはまっとうである。

 しかし、それはあくまでぼくらの感覚であって、ブッシュマンのものではない。ぼくら近代人は「個人」というものを発見した。それは共同体からの明確な分離を意味したが、そのかわりぼくらは「自由」を手に入れた。困っている人を助けるのも、助けないのも「自由」である。困っている人を更に困らせる「自由」すらある。だからこそ助けてもらった時、文字通り「ありがとう」という気持ちになる。(言うまでもないが、日本語の「ありがとう」は、古語の「有り難し=めったにない」から来ている。)

 ところがブッシュマンにはおそらく「個人」という概念はない。彼らの共同体は多分、聖書のたとえを借りれば、まるで一人の人間の体のようなものであろう。胃が食べ物を消化したからといって、腸が胃に感謝はしない。お互いの器官が「助け合う」のは当たり前だし、助け合うことが自然の流れとなっている。諸器官が助け合わなければ、そもそも人間の体自体が存在し得ないのだ。

 ということは、胃にも腸にも「自由」はないということだ。胃がオレはエビは消化するけど、サヤインゲンは嫌だなんて言えやしない。胃は、無意識に体全体のために食べ物を消化している。つまり胃も腸も常に全体の奉仕者なのだ。

 さて、どちらが幸せだろうか。近代人たる池澤さんは、ブッシュマンの共同体的精神に憧れているようだけれど、ブッシュマンには「自由」がない。我々は「自由」を得た代わりに利己主義者になってしまった。いくら池澤さんが憧れても、いったん利己主義者になった近代人は今更ブッシュマン的共同体を作ることはできない。

 エゴイストたる我々は、人に手を差し伸べられて、美しい花火を見た時のようにハッと胸を衝かれる。そして思わず「ありがとう」と言う。ぼくらが手に入れることのできる幸せは、たぶんそれだけなのだ。