56 韃靼海峡を渡る蝶

1999.3


   てふてふが一匹韃靼海峡を渡つて行つた。

 「春」と題する安西冬衛(明治31年〜昭和40年)の有名な詩である。「韃靼(ダッタン)海峡」というのは、間宮海峡のことだが、「韃靼海峡」という字といい、音といい、妙に印象に残る詩で、安西冬衛と言えば、必ず引かれる詩だ。一匹のかよわい蝶と、韃靼海峡という雄大な自然との対比が素晴らしいなどと評される。

 一度読むと忘れられないので、それだけで「名作」と言ってもいいのだろう。ただ、キャベツ畑なんぞをヒラヒラ飛んでいる可憐な蝶が果たして海峡を渡れるかと、いぶかるむきも多かろう。

 蝶だって、いろいろなのである。(なんて、力んでも仕方ないが)ここに出てくる蝶は、絶対にキャベツ畑や菜の花畑を飛んでるモンシロ蝶ではない。モンシロ蝶なんぞは、春の小川を渡るのがやっとというものだ。

 昆虫採集の道具として昔はよく注射器を売っていたものである。捕まえた虫に何でもかんでもアルコールを注射してしまうのである。カブトムシなんかだったらそれでもいい。しかし、蝶に注射なんぞしたら羽までビショビショになって、きれいな標本ができない。それで、蝶の場合はどうするかというと、蝶の胸を親指と人差し指の間に挟んで、ギュッとつぶすのである。あんまり強くつぶすと、内臓が出てきてしまうし、弱すぎると死なない。加減が難しい。しかも、蝶によってぜんぜん強さが違うのである。

 モンシロ蝶なんかは、ちょっと力を入れるだけですぐぐったりしてしまう。かわいいもんである。アゲハ蝶になると、おおきいので、相当力を入れなければならない。結構気持ち悪いものである。

 ところで、モンシロ蝶よりちょっと大きいぐらいなのだが、やたら毛深く、精悍な蝶がいて、名をタテハ蝶という。アカタテハ、キタテハ、ルリタテハなど数種いる。こいつの胸は「ハト胸」みたいに張っていて、弾力があり、そうとう力を入れてもぐったりしない。

 中学生のころのある日、そのタテハ蝶を力を入れて殺し、三角紙という紙に包んでしまっておいた。それから数週間たって、標本にするために三角紙からそのタテハを出そうとして開いたとき、なんと、死んだと思ったタテハがブルルンと飛んで行ってしまったのである。

 すごいものだ。体に致命的なダメージをうけながら、数週間、飲まず喰わずのはてに、飛んで逃げたのである。

 韃靼海峡を渡って行ったのは、タテハに違いないと、その時から堅く信じている。