55 「不愉快な死」

1999.3


 毎日新聞に、島田雅彦がインタビュー記事として、「脳死への違和」について述べている。島田の言いたいことは、「死は本質的に不愉快なものだから、それをドナーとなることで、死者の肉体が他者の中で生きているというふうに遺族が美化するのはよくない。不愉快な死にきちんと向きあっていないからだ。」というふうなことだった。

 不愉快なものとしての「死」に向き合うということは、その死の現実を直視せよということだろう。直視してどうなるのか。当然、その不愉快きわまる死を憎み、死に至らしめた病気や戦争を憎み、それらとの戦いに生きる意義を見いだしていく契機となるということだろう。そしてまた、人間存在の深淵をかいま見ることになるということだろう。そのことがわからないではない。

 島田はまた「臓器を提供する個々人の動機は崇高であるがゆえに、それはビジネスに利用される危険性がある。臓器提供者が美化されることで、それが規範化してしまうからだ。」とも言っている。戦争中の国家への献身の論理と重ね合わせて考えれば、それもうなずける。

 しかし、死を「美化」せずに、我々はどうして生きていけるだろうか。

 死の不愉快さこそが唯一の現実で、生きるとはその不愉快な死を全力を尽くして回避することでしかないというのは、最終的には死が回避できないものである以上、生きる力を与えてくれる思想ではない。

 死は確かに不愉快で、辛く、苦しく、悲しい現実である。しかし、その死を「新しい出発」と考える思想もある。肉体は死んでも、魂は残る。今回の報道をみると、脳死者の心臓・肝臓・角膜などが全国にばら蒔かれたような印象を受けるし、そのことに対して何か割り切れない気持ちもあった。しかし、脳死者の魂は生きつづけ、その肉体がなおまだこの世に生きる望みのある人の肉体を蘇らせることができたのだとすれば、やはり素晴らしいことだとぼくは思うのだ。あの世はあるだろうが、この世だって捨てたものではないからだ。

 先日、亡くなった祖母の友人の葬儀に参列した。祭壇の写真に向かって、「おばあちゃん、お世話になりました。あっちで、うちのおばあちゃんに、よろしく言ってください。うちのばあちゃんは、口が悪いけど、喧嘩しないようにね。」と心の中で呟いた。そのとき死は悲しいものではあったけれど、決して不愉快なものではなかった。