54 火の前で

1999.3


 火は、人に恐怖を与えると同時に、安らぎも与える。水もまた同じだ。自然というのは、人間にとって、恐怖の対象であると同時に、心やすらぐ故郷だということだろう。

 ぼくはたき火が好きで、庭の掃除などをすると、すぐに落ち葉などに火をつけて燃やしたくなる。ところが、家内はたき火を嫌がる。火を見ていると怖くなるというのだ。それはそれで分からないわけではない。ぼくも昔、近所の火事に夜中飛び起きて、その火の姿に歯の根が合わなかった記憶がある。たき火も、時として勢いづくと小さな火事を連想させるほどで、怖いと言えば怖い。しかし、やはりたき火はいいものだ。

 ストーブも、石炭や薪のストーブはすっかり姿を消し、だんだんと火の姿の見えないものが主流になっている。我が家などは、火の姿が見られるのは、台所のガスレンジだけだ。食卓にキャンドルを飾るほど若い夫婦でもないし、たばこに火を付けたりすることもないから、火はますます縁遠いものになっている。

 ぼくが通った中学・高校には、丹沢に山小屋を持っていたが、そこには電気がひかれていず、夜はランプの生活だった。ストーブも大きな鉄製の薪ストーブだった。ぼくはそういう生活が好きで、在学中に何回も出かけていったものだ。中でも、冬がよかった。ランプの光に照らされて、ストーブに薪を割っては投げ入れる。パチパチという薪の燃える音。ランプに照らされた顔が火照り、背中は妙につめたい。

 たいていは、気のあった友達数人で出かけたから、いつもそのストーブの周りは、なごやかな暖かい雰囲気が漂っていた。たわいもない話に笑いころげたり、学校の歌集に載っている歌をかたっぱしから歌ったりもした。その時は、ただ何となく楽しいという気分だったが、今こうして思い返してみると、二度と戻らない美しい時間のようにも思えてくる。

 火は、たぶん、ぼくらの心に原始の時代の単純さを取り戻させてくれるのだ。火はぼくらに畏怖の感情を起こさせるが、その畏怖の感情は必然的にぼくらの存在の核心にある単純さに気付かせる。ぼくらは、ここに生きている。それだけでいい、ということに気付かせてくれる。だから、ぼくらは火の前で、限りなく素直になれるのだ。